あなたは死者の復活を信じますか?
この質問に対して「は? 何言ってんの? 死者が復活するわけないじゃん!(笑)」 と多くの人が答えると思います。現代の常識で言えば、死者は復活しません。死者の復活は非科学的であり、オカルトの類だと思われています。一度死んだ人が蘇ったならば、世界的な大ニュースとなるに違いありません。この世界では「死者の復活を信じない人々」が圧倒的多数派です。
しかし、今日私が皆さんに伝えたいことは「死者の復活は存在する」ということです。死者の復活が存在することは神イエス・キリストがすでに論証しておられます。次の聖書箇所を見てください。
新約聖書ルカの福音書20章27-40節
復活があることを否定しているサドカイ人たちが何人か、イエスのところに来て質問した。「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻を迎えて死に、子がいなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎え、子がないままで死にました。次男も、三男もその兄嫁を妻とし、七人とも同じように、子を残さずに死にました。最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです。」律法学者たちの何人かが、「先生、立派なお答えです」と答えた。彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった。
新約聖書の時代、ユダヤ教の中にサドカイ派と呼ばれる一派がありました(サドカイ派は今現在存在しません)。サドカイ派は旧約聖書の中のモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)だけを信じていたと言われており、モーセ五書から「死者の復活」を読み取ることができないという理由で、彼らは「死者の復活」を信じませんでした。彼らは自分たちの意見を擁護する為にイエスに近づき、死者の復活がないことを証明しようとしました。彼らは「レビラート婚」を引き合いに出しています。レビラート婚とは、夫の死後、未亡人が、夫の兄弟の一人と再婚する婚姻形態であり、日本でも「弟直し」、「つぎ縁」と称して各地で行われていました。彼らの論法は「七人の夫がいた女性にとって正規の一人の夫を絞ることができないので、よって死者の復活はない」というものでした。しかし、イエスは「死者の復活がある」ことを論証されます。まず、サドカイ派の「この世の法則が次の世界にも当てはまる」という考えは間違っていました。「次の世界」と「この世」は全くの別物であるので、この世の法則は次の世界では全く当てはまりません。次の世界では「めとる、嫁ぐ」という概念自体が存在しません。また、サドカイ派の人々の「モーセ五書から死者の復活を読み取ることはできない」という考えも間違っていました。モーセ五書では、モーセが神様を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んでいます。モーセが生きていた時、アブラハムも、イサクも、ヤコブもすでに天に召されていました。しかしモーセは「アブラハムの神だった神、イサクの神だった神、ヤコブの神だった神」とは言いませんでした。なぜなら、アブラハムもイサクもヤコブも天で生きていたからです。肉体的に死んだ者は、霊的に生きているのです。これは死者の復活が存在することの証明となります。人は死ぬことがないのです。肉体的には死んでいても霊的には生きているので、彼らを「死者」と呼ぶこと自体がおかしな話です。つまり死者の復活は確実に存在するということです。実際、聖書にはイエスが死者を甦らされる場面が登場します。
新約聖書ルカの福音書7章11-17節
それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大勢の群衆も一緒に行った。イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。人々はみな恐れを抱き、「偉大な預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がご自分の民を顧みてくださった」と言って、神をあがめた。イエスについてのこの話は、ユダヤ全土と周辺の地域一帯に広まった。
新約聖書ヨハネの福音書11章38-45節
イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。
イエス様は神のお力によって死者をよみがえらされました。よみがえった者は「ゾンビ化」したのではなくて、元の状態に完全に戻りました。キリストのお力によれば死者は完全に復活するのです。また、神であられるイエス・キリストも十字架刑に処され、死に、三日目に復活されました。
新約聖書マルコの福音書16章
さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕
〔さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された。彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。マリアは、イエスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行って、そのことを知らせた。彼らは、イエスが生きていて彼女にご自分を現された、と聞いても信じなかった。
それから、彼らのうちの二人が徒歩で田舎に向かっていたとき、イエスは別の姿でご自分を現された。その二人も、ほかの人たちのところへ行って知らせたが、彼らはその話も信じなかった。
その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」
主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。〕
イエス・キリストが三日目に復活なされたことが、「死者の復活が存在すること」の何よりの証拠です。死者の復活は本当に存在するのです。聖書はこの世界に存在する全ての人間は必ず復活することになると言います。死者の復活は二回あります。
新約聖書テサロニケ人への手紙第一4章13-18節
眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。
新約聖書ヨハネの黙示録20章11-15節
また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。
第一の復活は「キリスト者の復活」です。イエス・キリストが再び地上に降りてこられた時、まずすでに亡くなっている信者が復活し、イエスと出会います。第二の復活は「不信者の復活」です。再びやって来られたイエスがさばきの座に着く時、非キリスト者が復活し、イエスの前に立ち、裁判を受けます。すべての裁判の後、キリスト者は天国へ、非キリスト者は地獄へと導かれます。死者の復活は、キリスト者にとっては希望です。なぜなら「新しい栄光の身体」が神様から与えられるからです。
新約聖書コリント人への手紙第一15章35-57節
しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。また、あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。
兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
イエス・キリストを神と信じる者は、復活の際、いつまでも朽ちることのない栄光の身体が与えられ、永遠の天国でいつまでも幸せに暮らすことができます。キリスト者にとって死者の復活は「希望」なのです。反対に、キリストを神と信じない不信者にとって死者の復活は「絶望」です。復活した非キリスト者は、罪に定められ、地獄に落ち、永遠に苦しむことになるからです。
あなたにとって、死者の復活は「希望」でしょうか? それとも「絶望」でしょうか?それを決めるのはあなたです!あなたがイエス・キリストを神と信じるか信じないかで全てが決まります!是非キリストを神と信じ、復活を希望としてください!そうすればあなたは、いつまでも朽ちることのない「希望」で心が満たされることでしょう!!ハレルヤ!!!
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