私たちが人生を歩んでいると、必ずと言っていいほど嵐に遭遇します。
嵐の内容は人によって様々です。しかし、この世界に試練・困難に遭わない人は存在しません。誰もがそれぞれにとっての嵐に巻き込まれます。人は、嵐に巻き込まれた時、心の中がかなり乱れるものです。体の外側も嵐、内側も嵐となると、生きた心地がしませんよね。嵐の中にいることは、その人にとって最も苦しく、つらく、悲しい時間となります。嵐の中で「希望」を持つことは非常に難しく、たいていの人は「意気消沈」し、絶望します。
筆者である私も大きな嵐に遭遇したことがあります(私にとっては大きな嵐でしたが、他の人にとっては小さな嵐かもしれません笑)。関西大学の建築学科を卒業した私は、大阪の有名住宅メーカーに就職しました。就職して2年後、なんと私は会社からクビを切られてしまいました。理由は、自身の熱い信仰心と会社の価値観がかなり合わなかったことと、自身の業績不良の為でした。ショックでした。私はその会社で定年まで働くことになると思っていました。しかし現実は違いました。クビを言い渡されたのは結婚して2か月ぐらいの頃でした。就職してまだ2年しか経っていなかったので、次の会社が見つかるかどうかもわかりません。絶望感、喪失感、不安感、悲しみ、苦しみ、怒りの感情などが私の心に襲い掛かりました。まさに嵐です。全てが竜巻、大波、稲妻のように見えました。あまりの試練・困難に胸が押しつぶされ、私は家で食事をしている時、妻の前で泣いてしまいました。そして神様に助けを祈り求めました。するとなんと、本当に助け出されたのです。すんなりと次の会社が見つかり、待遇面も前の会社より改善しました。あの嵐が嘘だったかのように、今は平安の中で、次の会社で日々働いています。
嵐の中にいる時は「希望」なんてものは見えてこないものですが、確かにそこには「希望」があります。その希望とは「神様」です。神様は私たちが遭う試練・困難をあらかじめ知っておられ、私たちが苦しむ姿をしっかりと見ておられます。そして、私たちが神様に助けを祈り求めることを忍耐して待っておられます。
新約聖書コリント人への手紙第一10章13節
あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
上の聖書箇所のように、神様は試練と共に脱出の道もあらかじめ備えてくださっています。その脱出の道を歩む為には、私たちが神様に助けを求めることが必要です。脱出の道を与えられるのは神様です。神様に祈り求める者は、必ず脱出の道が与えられます。しかし、神様に祈り求めない者は、救い出されることはありません。
詩篇121編
都上りの歌。
私は山に向かって目を上げる。
私の助けは どこから来るのか。
私の助けは主から来る。
天地を造られたお方から。
主は あなたの足をよろけさせず
あなたを守る方は まどろむこともない。
見よ イスラエルを守る方は
まどろむこともなく 眠ることもない。
主はあなたを守る方。
主はあなたの右手をおおう陰。
昼も 日があなたを打つことはなく
夜も 月があなたを打つことはない。
主は すべてのわざわいからあなたを守り
あなたのたましいを守られる。
主はあなたを 行くにも帰るにも
今よりとこしえまでも守られる。
私たちが神様に助けを求める時、神様は必ず私たちを助けてくださいます。神様が私たちを助けずに放っておかれることはありえません。
新約聖書マタイの福音書7章7-11節
求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。
「求める者は必ず与えられる」というのが聖書の法則です。神様が、求める者に良いものを与えられないことは絶対にありません。神様は私たちに必ず良いものを与えてくださいます。神様は私たちが直面する嵐を凪に変える偉大な力をお持ちです。次の聖書箇所を見てください。
新約聖書ルカの福音書8章22-25節
ある日のことであった。イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちは舟を出した。舟で渡っている間に、イエスは眠り始められた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、彼らは水をかぶって危険になった。そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」
ある日、イエス一行は嵐に遭いました。しかし、その嵐は、弟子たちの目には非常に大きなものに映りましたが、イエス様の目には非常に小さなものに映りました。だからこそ、弟子たちは騒ぎ出しましたが、イエスは眠っておられました。弟子たちは危機的状況に陥ってパニックになりました。はじめ弟子たちの視線は嵐に向いていましたが、彼らは次にイエスへと視線を移しました。そして、彼らはイエスに助けを求めました。するとイエスは嵐を𠮟りつけ、嵐は何事もなかったかのように落ち着き、湖は凪になりました。弟子たちは嵐そのものを見ている時はパニックに陥りましたが、イエスに視線を移し、助けを求めることにより、平安を取り戻しました。つまり、私たちが嵐に遭遇したときの絶対的な希望は「イエス・キリスト」であるということです。
一つ注意点があります。イエス様から助けて頂く為には「信仰」が必要不可欠です。
新約聖書へブル人への手紙11章1節
さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
信仰とは「疑わないこと」です。私たちがイエス様に助けを求めるとき、イエス様は必ず私たちを助けてくださると信じて疑わないことが信仰です。私たちが神を疑うとき、神は私たちを助けてはくださいません。
新約聖書ヤコブの手紙1章2-8節
私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。
あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。
少しも疑わずに、神に助けを求めることが重要です。そうすれば神様はあなたを助けてくださいます。
あなたは嵐の中で何を見ますか?
くれぐれも嵐そのものを見ないでください。
嵐の中で静かに眠っておられるイエス・キリストを見つけてください。
イエスこそ私たちの「希望」です。
新約聖書へブル人への手紙12章2節
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
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