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「信仰」は必ずしも「幸福」を保証するのか?


信仰生活は必ずしも幸せな人生を保証するものではありません!

ご利益宗教という言葉があります。


「ご利益」とは、神仏が人に与える恵みや幸運のことで、「家内安全」「無病息災」「商売繁盛」などがあります。ご利益宗教とは、信仰を持つことでこういった「ご利益」が必ず与えられるとされる宗教のことです。日本の在来宗教である「神道」では、ご利益が強調され、多くの人は神様から「ご利益」を頂く為に定期的に「神社」を訪れ、お賽銭を神様に捧げ、祈りの中で神様にお願いごとを伝えます。神様へのお祈りを続けることにより必ず「願いごと」が叶うとされ、人々は継続して神社に参拝します。「百度(ひゃくど)参り」というものが存在します。百度参りとは日本民間信仰で、神仏に祈願するために同一の社寺に百度参拝することです。百度も同じ社寺を参拝するのは「何としてもご利益を得たい」という強い気持ちの現われです。


神道に関わらず、世界中のあらゆる宗教では「ご利益宗教」の傾向が強いです。多くの人々は「信仰」を持てば幸福になれると思い込んでいます。しかし、本当にそうでしょうか。本当に信仰を持てば、人は必ず幸せになれるのでしょうか。永遠の大ベストセラーの聖書は「そうではない」と言います。聖書は「信仰を持てば必ず迫害にあう」と言います。


新約聖書テモテへの手紙第二3章12節

キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。


新約聖書ヨハネの福音書15章18-21節

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。


イエス・キリストを信仰する者は迫害にあいます。これは事実です。聖書に登場するキリストの弟子の多くは迫害にあい、殉教の死をとげました。例えば、バプテスマのヨハネ、ステパノ、ヤコブ、ペテロなどがいます。また、イエス様ご自身も人々から嘲られ、ローマ兵により鞭打たれ、十字架刑に処され、死なれました。


新約聖書ルカの福音書3章18-20節

このようにヨハネは、ほかにも多くのことを勧めながら、人々に福音を伝えた。しかし領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロディアのことと、自分が行った悪事のすべてをヨハネに非難されたので、すべての悪事にもう一つ悪事を加え、ヨハネを牢に閉じ込めた。


新約聖書マタイの福音書14章7-12節

それで彼は娘に誓い、求める物は何でも与えると約束した。すると、娘は母親にそそのかされて、「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言った。王は心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。それから、ヨハネの弟子たちがやって来て遺体を引き取り、葬った。そして、イエスのところに行って報告した。


新約聖書使徒の働き7章57-60節

人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。


新約聖書使徒の働き12章1-3節

そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人たちを苦しめようとしてその手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。それがユダヤ人に喜ばれたのを見て、さらにペテロも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祭りの時期であった。


新約聖書ヨハネの福音書21章17-19節

イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」


新約聖書マタイの福音書27章45-50節

さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。「この人はエリヤを呼んでいる。」そのうちの一人がすぐに駆け寄り、海綿を取ってそれに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした。ほかの者たちは「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。


その他、長い歴史を通して、多くの信仰者が迫害にあい、殉教の死をとげました。私たちの暮らす日本でも、戦国時代には大量の殉教者が起こされました。また、今なお、世界には信仰の故に迫害を受け、殉教する者たちが存在します。つまり何が言いたいのかというと、「信仰」を持つことは必ずしも「幸福」を保証しないということです。むしろ、信仰を持つことは「迫害」や「試練・困難」を伴うことの方が多いです。イエス様ご自身が修羅の道を行かれたので、私たち弟子も修羅の道を行くのは当然のことです。イエス様は「十字架を背負って私についてきなさい」とおっしゃられました。


新約聖書マタイの福音書10章38節,16章24節

自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。


十字架刑で使われる十字架は90kgほどであると言われます。実際のところ、十字架は非常に重いです。非常に重い十字架を背負うことこそが信仰生活なのです。信仰生活には「試練」「困難」「迫害」がつきものです。しかしながら、それらは苦しいことではなく、私たち信仰者にとっての喜びです。


新約聖書マタイの福音書5章10-12節

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。


新約聖書ヤコブの手紙1章2-4,12節

私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。


新約聖書ペテロの手紙第一1章6,7節

そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。


新約聖書へブル人への手紙12章5-11節

そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。

「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。

 主に叱られて気落ちしてはならない。

 主はその愛する者を訓練し、

 受け入れるすべての子に、

 むちを加えられるのだから。」

訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。


時に神様は、私たちの成長を願って「試練」を与えられます。私たちがその試練を乗り越える時、私たちは成長します。ですから、試練は私たちにとっての「喜び」であるのです。神様が私たちに気に留められ、私たちを教育してくださっているのですから。また、人々から迫害を受けることも私たちにとっての「喜び」です。迫害を受けるということは、私たちが間違いなくキリストの弟子であることの証明です。迫害を受ける者は、天国へ行ったときに神様から大きな報いを受けることになります。天での大きな報酬を見つめるならば、迫害は私たちにとっての喜びとなります。


あなたは今まで「ご利益宗教」にはまっていたかもしれません。今日、その思い込みを捨てましょう。信仰は必ずしも「幸福」を保証しません。信仰を持つということは、むしろ「試練、困難、迫害」の連続です。信仰生活とは、十字架を背負われたキリストの後ろを、自分も同じように十字架を背負って着いていくことに他なりません。しかし、それこそが私たちにとっての喜びであるのです。重量な十字架を背負うことによって、私たちは成長し、天で大きな報いを受けることになるからです。喜びましょう!大いに喜びましょう!天で神様が両手を広げてあなたを待っておられます!ハレルヤ!!

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