あなたは何に依存していますか?
人は皆、精神的に何かに依存し、崇めています。
最近「推し」という言葉が流行していますね。「推し」とは、主にアイドルや俳優について用いられる日本語の俗語であり、人に薦めたいと思うほどに好感を持っている人物のことをいいます。アイドルという言葉は英語の「idole」から来ており、idoleの意味は「偶像」です。偶像とは、神の像や仏の像、およびそれを崇拝する行為を指すために使われている言葉です。物としての偶像ではなく、それを崇拝する行為のほうに焦点を当てた用語として「偶像崇拝」があります。偶像崇拝とは、偶像を崇拝する行為です。つまりです。「推し」や「アイドル」という存在は、人から依存され、崇められる存在であるということです。「推し」や「アイドル」でなくても、人はみな誰かしらに依存し、心の中で崇めているものです。
ある人は「お金」に依存し、崇めています。この世界は「お金」を根底として成り立っているので、お金をたくさん持っている人は物質的に豊かになることができます。お金を多く持てば持つほど、物質面において豊かになることができるので、多くの人は金銭に依存し、崇めています。
また、ある人は「承認」に依存し、崇めています。InstagramやFacebook、X、YouTubeなどのSNSでは、他人から送られた「いいね」の数が表示され、多くの人は自分の投稿に多くの「いいね」がついた時に大喜びし、「いいね」の数が少ないと意気消沈します。また、多くの「フォロワー」や「友達」、「チャンネル登録者」がいる人は、一躍「有名人」として賞賛をあびることになり、人々から崇められます。ほとんどの人々が「承認要求」を満たすためにSNSに様々な投稿を上げ、承認要求の奴隷となっています。
その他にも、地位や名声、会社、仕事、家族、学校、学歴、友達、成績、賞、趣味、クラブ、スポーツなどに多くの人々は依存し、崇めています。
本日、私が皆さんにお伝えしたいことは「そういった物に依存し、崇めることは良くないことである」ということです。それらの物はあなたの心を完璧に満たすことはできません。
新約聖書ヨハネの福音書4章7-19節
一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
この場面において、イエス様はサマリア人の女性に「井戸の水をたくさん飲んでもまた喉が渇くが、私の与える水を飲む者は永遠に喉が渇くことがない」と言われました。彼女は離婚を繰り返していました。おそらく彼女自身は「男性」に依存し、心の中で「男性」を崇めていました。「男性」が自分の心を完璧に満たしてくれるのだと思い込んでいたのだと思います。しかし、現実は違いました。「男性」が彼女の心を満たしてくれることは決してありませんでした。この世のものでは、人の心を完璧に満たすことはできないのです。
では何であれば、人の心を完璧に満たすことができるのでしょうか。それは「イエス・キリスト」です。神であられるイエス・キリストであればあなたの心を完璧に満たすことができます。イエス・キリストに依存し、イエス・キリストを心の中で崇めるならば、もう喉が渇くことはありません。あなたの喉は完璧に潤されるのです。イエス様はこのように言われました。
新約聖書ヨハネの福音書14章6節
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
新約聖書ヨハネの福音書11章25,26節
イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
イエス・キリストだけが唯一の道です。イエス・キリスト以外の他のなにものでも、私たちの心は満たされないのです。イエス・キリストに依存し、イエス・キリストを崇めましょう。そうすれば、あなたは完璧に満たされた最高の人生を歩むことができます。
新約聖書ルカの福音書3章15-17節
人々はキリストを待ち望んでいたので、みなヨハネのことを、もしかするとこの方がキリストではないか、と心の中で考えていた。そこでヨハネは皆に向かって言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
バプテスマのヨハネという人が聖書に登場します。彼はイエス様がやって来られる少し前に現れて、イエス様がやって来られる前準備を整えたことで有名です。彼は「罪の悔い改めに導くバプテスマ」を人々に宣べ伝えました。簡単にいうとヨハネは人々に「あなたがたは罪人であるから、罪を悔い改めなければならない」と伝え、罪の悔い改めの象徴としてバプテスマ(洗礼)という宗教儀式を施しました。当時の多くの人々は救い主(キリスト)の現れを待ち望んでいたので、ヨハネがキリストであると勘違いしました。そこでヨハネは「わたしは救い主(キリスト)ではない。わたしよりもキリストの方がもっと偉大なお方である。」と答えました。私たちもこの民衆のように「これこそが私の救い主(キリスト)だ!」と思ってしまいますが、実際はそうではないのです。イエス様こそが唯一の真の救い主(キリスト)なのです。この世のものと比べれば、イエス・キリストの方がはるかに偉大で優れています。
あなたは何に依存し、何を崇めますか?
あなたが依存し、崇めているものは、本当にあなたの心を完璧に満たしてくれますか?一度飲んでも、また喉が渇くのではないですか?
イエス・キリストだけが、あなたの心を完璧に満たし、潤すことができます。イエス・キリストに依存し、イエス・キリストを崇めましょう。
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