時代は急速に流れます。
私たちが暮らす世界は急速に変化しています。人々は常に新しいものを求めています。1年前に大ヒットした映画やドラマ、アニメなどは、すでに人々から忘れ去られ、多くの人は新しい映画やドラマ、アニメに夢中です。テレビ音楽番組に出演するアーティストの顔ぶれは5年も経てばガラリと変わります。音楽ヒットチャートは毎週のように変化し、常に新しい楽曲が上位にランクインします。30年前に流行っていた楽曲が今週のヒットチャートにランクインすることなど、まずないことでしょう。その他にも、ファッション、コスメ、流行語、家電製品、電子機器、インフルエンサー、趣味、考え方、価値観など、全ての分野において、常に新しいものが求められ、新しい珍しいものが世間を賑わせています。
時代は常に動いています。変化のないものはありません。そのような社会の中で、多くの人々は時代の流れに着いて行くことに疲れを感じています。そして、多くの人々が時代の流れから脱落し、新しいもの・新しい考え方を取り入れることをやめ、古いもの・古い考え方に固執しています。一度時代の流れから脱落してしまった人は、もはや復帰することができず、時代に取り残されてしまいます。そのような人々は口癖のように「だめだ、時代に着いて行けない、、、」、「最近の若い子は本当に〇〇〇だから、、、」、「これはなに、、、だめだ全然わかんない、、、」などと呪文のように唱えます。そこから起死回生すればよいのですが、多くの人はすでに諦めているので、もはや手遅れです。時代に取り残された人々は、ずっと古いもの・古い考えの中で煮詰められ、"古さ"が濃縮されていきます。必要以上に”古さ”に固執するのは危険です。”古さ”に固執する人は変化を嫌い、新しいものに恐怖を覚え、次第に人の意見を受け入れることができなくなり、人間関係に摩擦を生じさせます。永遠の大ベストセラーである聖書には、イエス・キリストが「古さ」に固執する人々をお責めになる場面が登場します。
新約聖書ルカの福音書5章17-39節
ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」
その後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留められた。そして「わたしについて来なさい」と言われた。するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。
それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。すると、パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」
また彼らはイエスに言った。「ヨハネの弟子たちはよく断食をし、祈りをしています。パリサイ人の弟子たちも同じです。ところが、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」イエスは彼らに言われた。「花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友人たちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがて時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい衣から布切れを引き裂いて、古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、その新しい衣を裂くことになり、新しい衣から取った布切れも古い衣には合いません。まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」
この場面に登場する「パリサイ人、律法学者」がまさに「古さ」に固執する人々でした。彼らは旧約聖書に書かれている律法(宗教規則)を遵守することに価値を置いていました。彼らは律法を完璧に守り行うことにより自分の正しさを証明し、律法を守れていない人々を見下し、責めました。だからこそ彼らは、律法を完璧に守り行わない神であられるイエス・キリストの型破りな言動を受け入れることができませんでした。イエスは中風の患者に「あなたの罪は赦された」と言われましたが、パリサイ人と律法学者は神への冒涜罪でイエスを非難しました。しかし、イエスは神張本人であられたので、神への冒涜罪には当たりませんでした。また、パリサイ人と律法学者は罪人を弟子にし、罪人と食事を共にするイエスを非難しました。本気で神へ祈るときに人は断食(食事をしないこと)をしましたが、パリサイ人と律法学者はイエスの弟子が断食を一切しないことを不服に思い、イエスを非難しました。この非難は全てパリサイ人と律法学者が古い律法に固執していたからこそのものでした。この非難に対して、イエスは古い考えにとらわれて新しい考えを受け入れない彼らの姿勢を責められました。現代では、ワインはボトルに入れられて保管されますが、当時は、ワインを革袋に入れて保管しました。基本的に新しいワインは膨張します。新しい革袋に入れられた新しいワインは革袋と共に膨張します。しかし、古い革袋に入れられた新しいワインは膨張し、伸び切って固くなった革袋を裂きます。つまり、新しいもの・新しい考えは、古いもの・古い考えとは合わないのです。古いもの・古い考えにとらわれた人が、新しいもの・新しい考えを望むことはなく「古いもの・古い考えのままで良い」と言います。新しいもの・新しい考えを受け入れられなかったユダヤ教信者たちは、最終的にイエス・キリストを十字架刑に処して殺してしまいました。しかし実際は、ユダヤ教信者の考えが間違っており、イエスの考えが正しいものでした。
新約聖書マタイの福音書5章17,18,19,20]
わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。
新約聖書ローマ人への手紙3章19-31節
私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。
しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人の神でもあります。神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。
新約聖書ローマ人への手紙9章30-33節
それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」
新約聖書ローマ人への手紙10章4-13節
律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。
モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。
また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。
ユダヤ教信者たちは旧約聖書の律法(宗教規則)を守り行う者は救われる(天国へ行く)と考えていました。しかしイエスは、信仰による救いを提示されました。実際、イエスの教えられた「信仰による救い」は「律法による救い」と全く異なるものではなく、律法による救いの完成版・最終形態でした。全ての人は罪人であるので、人は完璧に律法を守り行うことができません。ですから、人は律法によって救われることはできず、滅びる(地獄行き)運命にありました。あわれみ深い神様は、律法によっては救われない人間に、信仰による救いをイエス・キリストを通して与えてくださいました。信仰による救いとは「人はイエスを信じるだけで救われる(天国へ行く)」ということです。
神であられるイエス・キリストは、ご自身を人間の罪に対する生け贄として、十字架の上にお捧げになられました。十字架刑に処されたイエスは死に、よみに下り、そして三日目に復活され、天に昇り、神の右の座に座られました。イエスという捧げものにより人間の罪が完璧に赦され、天国への道が開かれました。なぜなら、天国という場所は完璧に聖いので、罪人は入ることができないからです。イエスを信仰する者は、天におられるイエスにより罪赦され、死んだあと永遠の天国へと導かれます。つまり、イエスは救いへの道を完成されたのです。
ユダヤ教信者たちは「律法による救い」という古い考えに固執することにより、「信仰による救い」という新しい考えを受け入れることができませんでした。彼らは神様のあわれみを受けるチャンスを逃してしまったのです。これは非常に残念なことです。ここから、いかに”古さ”に固執することが危険であるのかがわかります。
あなたは常に時代の流れにうまく乗っているでしょうか。新しいもの・新しい考えを柔軟に受け入れているでしょうか。必要以上に”古さ”に固執していないでしょうか。あまりにも”古さ”に固執するあまり、神様からのお恵みを逃してはいないでしょうか。世界は常に流動します。時代は今も流れています。「昔」を生きるのではなく「今」を生きる者となりましょう。あなたは「今この時」を生きているのですから!今日という新しい神様からのお恵みを受け取りましょう!ハレルヤ!!
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