世の中には多くの「決まり」が存在します。
あなたは「決まり」に厳しいタイプですか。それとも「決まり」に寛容なタイプですか。例えばです。私が暮らす大阪府には、公営の大阪府営住宅というものがあります。大阪府営住宅の管理規則の中に「模様替え申請」というものがあります。模様替え申請とは、入居者が部屋の中を個人的に改造する時に大阪府庁へ承認をもらう為の申請です。模様替え申請の中で最も件数が多いのは「エアコン専用コンセントの増設」です。大阪府営住宅では、基本的に各住戸に一つずつエアコン専用コンセントが設置されています。しかしながら、一つの家庭に一台のエアコンだけでは夏は暑く、冬は寒いです。ですから多くの家庭では、エアコンを数台設置する為に大阪府庁へ「エアコン専用コンセントの増設」を模様替え申請します。この模様替え申請ですが、申請してから許可証が発行されるまで、約2、3週間かかります。近年、夏は非常に気温が高くなり、熱中症で命を絶つ人が増加しています。夏に体調を崩す人が多いので、夏は申請件数が増えます。この時、とある問題が浮上します。猛暑に襲われ命の危険があるのにも関わらず、申請の許可が下りるまで2、3週間かかってしまうということです。「決まり」に乗っ取れば、入居者は許可が下りるまでエアコンを設置することができません。しかしながら猛暑で命の危険があるので、入居者は今すぐエアコンを設置する必要があります。当然のことながら、今すぐエアコンを設置したい入居者はその旨を大阪府庁へ相談します。この相談に対して大阪府庁は頭を抱えて悩むわけです。「決まり」を優先するのか「人命」を優先するのか。
このようなジレンマは私たちの暮らしの中にたくさん溢れています。私たちも日々このようなジレンマに遭遇し、悩まされます。私たち自身も日々、分岐点に立たされます。あなたであれば「決まり」と「人命」のどちらを選びますか?永遠の大ベストセラーである聖書は「決まり」よりも「人命」を優先するように教えています。神であられるイエス・キリストの教えを見てみましょう。
新約聖書ルカの福音書6章1-11節
ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは穂を摘んで、手でもみながら食べていた。すると、パリサイ人のうちの何人かが言った。「なぜあなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」イエスは彼らに答えられた。「ダビデと供の者たちが空腹になったとき、ダビデが何をしたか、どのようにして、神の家に入り、祭司以外はだれも食べてはならない臨在のパンを取って食べ、供の者たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」そして彼らに言われた。「人の子は安息日の主です。」
別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに右手の萎えた人がいた。律法学者たちやパリサイ人たちは、イエスが安息日に癒やしを行うかどうか、じっと見つめていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。イエスは彼らの考えを知っておられた。それで、手の萎えた人に言われた。「立って、真ん中に出なさい。」その人は起き上がり、そこに立った。イエスは彼らに言われた。「あなたがたに尋ねますが、安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。」そして彼ら全員を見回してから、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、手は元どおりになった。彼らは怒りに満ち、イエスをどうするか、話し合いを始めた。
この場面ではパリサイ人と律法学者が登場します。パリサイ人とはユダヤ教の一派で、旧約聖書の律法(宗教規則)を厳格に順守することに価値を置く人々のことです。律法学者とは、その宗教規則である律法の専門家のことです。彼らは事あるごとにイエスを非難しました。論点はいつも「律法の順守」についてでした。ある日、イエスの弟子たちは麦畑から穂を摘んで食べました。その日は安息日(週に一度の礼拝日であり土曜日にあたる)でした。旧約聖書の律法にはこうあります。
旧約聖書出エジプト記20章8-11節
安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。
旧約聖書出エジプト記31章12-17節
主はモーセに告げられた。「あなたはイスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるしである。わたしが主であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなたがたが知るためである。あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。六日間は仕事をする。しかし、七日目は主の聖なる全き安息である。安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。それは主が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。」
律法では、安息日に仕事をしてはいけないことが定められています。ですから、パリサイ人と律法学者は安息日に麦畑の穂を摘んで食べたイエスの弟子たちを、安息日に労働をしているからという理由で告発したのでした。そもそも安息日に麦畑の穂を摘んで食べることが労働にあたるのかどうか疑問ですが、今日の論点はそこではありません。今日の論点は、パリサイ人と律法学者が「人命」よりも「決まり」を優先したことにあります。旧約聖書には、麦畑から穂を摘むことに関して、このような記載があります。
旧約聖書申命記23章24,25節
隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない。
旧約聖書レビ記19章9,10節
あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
旧約聖書申命記24章19-22節
あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを覚えていなければならない。それゆえ私はあなたに、このことをせよと命じる。
旧約聖書の律法では、農家の人々が自分の畑の隅々まで刈り込んで作物を収穫することは禁止されおり、ある程度の作物を貧しい人々の為に畑に残しておくように命令されています。この決まりにより、貧しい人々は畑の作物を自由に食べることができました。この規則は、イスラエルから貧困を無くすために決められたことでした。
このような背景の中で、パリサイ人と律法学者は安息日に畑の穂を摘むイエスの弟子たちを非難したのでした。これについてイエスは、旧約聖書に登場する英雄ダビデ王の取った行動を用いて反論します。
旧約聖書サムエル記第一21章1-6節
ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。アヒメレクは震えながら、ダビデを迎えて言った。「なぜ、お一人で、だれもお供がいないのですか。」ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、あることを命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じたことについては、何も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を下さい。」
祭司はダビデに答えて言った。「手もとには、普通のパンはありません。ですが、もし若い者たちが女たちから身を遠ざけているなら、聖別されたパンはあります。」ダビデは祭司に答えて言った。「実際、私が以前戦いに出て行ったときと同じように、女たちは私たちから遠ざけられています。若い者たちのからだは聖別されています。普通の旅でもそうですから、まして今日、彼らのからだは聖別されています。」祭司は彼に、聖別されたパンを与えた。そこには、温かいパンと置き換えるために、その日主の前から取り下げられた、臨在のパンしかなかったからである。
ダビデは王になる以前、先代のサウル王から追われる身でした。ダビデは王宮の中で権力を持ちすぎ、サウル王から疎まれたからでした。王宮から逃げ出したダビデは、祭司アヒメレクのところに身を避け、食べ物を与えてくれるように懇願します。祭司アヒメレクはこの時、臨在のパンだけを持っていました。
旧約聖書レビ記24章1-9節
主はモーセにこう告げられた。「あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の、質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで主の前に絶えずそのともしびを整えておく。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。彼はきよい燭台の上に、そのともしびを主の前に絶えず整えておく。
あなたは小麦粉を取り、それで輪形パン十二個を焼く。一つの輪形パンは十分の二エパである。それを主の前のきよい机の上に一列六つずつ、二列に置く。それぞれの列に純粋な乳香を添え、覚えの分のパンとし、主への食物のささげ物とする。彼は安息日ごとに、これを主の前に絶えず整えておく。これはイスラエルの子らによるささげ物であって、永遠の契約である。これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、主への食物のささげ物のうちから、永遠の定めにより彼に与えられた割り当てだからである。」
臨在のパンとは、神に捧げられたパンを指し、祭司だけが食することを許されていました。ダビデはこの時、空腹で食べるものがありませんでした。祭司アヒメレクは、選択を迫られました。「決まり」に従って臨在のパンを戦士ダビデに与えることを控えるか、「人命」を最優先に考え臨在のパンを戦士ダビデに与えるのか。祭司アヒメレクが選んだのは「人命」でした。イエスはこのストーリーを用いて、パリサイ人と律法学者に「決まり」よりも「人命」を大切にすべきであることを教えられました。
その後、パリサイ人と律法学者は、安息日に右手が萎えた病人を癒すイエスを続けて非難しました。彼らにとって病人を癒すことは「仕事」に当たったからです。しかしここでもイエスは「安息日に善を行うこと、人の命を救うことは良いことである」と反論し、「決まり」よりも「人命」を大切にすべきであることを教えられたのでした。
あなたはどうでしょうか? あなたは「決まり」に厳格ですか? ?それとも寛大ですか?確かに「決まり」を遵守することは非常に大切です。「決まり」が守られていない場所には秩序が保たれないからです。しかし、「決まり」は「人命」以上のものではありません。あくまで「人命」が第一優先です。「決まり」への厳格さを持つことは大事ですが、同時に寛大さも併せ持つようにしましょう! 何よりもまず他人への愛を優先する者となりましょう!!
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