現代社会では「愛」が忘れ去られています。
私たちは「愛のない社会」で生きています。親から虐待を受けながら育つ子供たち。夫婦喧嘩の絶えない家庭。"いじめ"がなくならない学校。陰口、争いの絶えない職場。家庭にも、学校にも、会社にも、どこにも愛がありません。人間関係のあるところには問題がつきもので、多くの人は愛のないこの社会に絶望しています。私たちが暮らす日本は自殺大国であり、毎年数万人の自殺者が出ます。愛のないこの日本社会で自殺者数が多い理由もなんとなくわかる気がします。誰しもが「愛」を求めています。しかし、誰も「本当の愛」を見つけることができず、失望しています。誰しもが「愛」という最高の理想を持っていますが、現実とのギャップに絶望しています。私たちが暮らすこの日本には今こそ「本当の愛」が必要であるのです。
新約聖書ヨハネの福音書13章34節
わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
新約聖書コロサイ人への手紙3章14節
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。
新約聖書ペテロの手紙第一4章8節
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
イエス様は私たち人間に「互いに愛し合いなさい」と命じておられます。なぜこのように命じておられるのかというと、愛は多くの罪をおおう、結びの帯として完全だからです。「愛」は、この問題だらけの社会をおおう結びの帯です。愛は世界中の人々を一つにします。愛だけが全ての問題を解決することができ、人々を和解させることができます。愛は世界を変えるのです。だからこそイエス様は私たちに「互いに愛し合いなさい」と命じておられるわけです。イエス様はまた「わたしがあなたがたを愛したように」とも言われます。ここから愛の本質を学ぶことができます。
新約聖書ヨハネの福音書15章13節
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
新約聖書ヨハネの手紙第一3章16,17節
キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。
新約聖書ヨハネの手紙第一4:7-12,16-21節
愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。
新約聖書ローマ人への手紙5章5-8節
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
イエス様は、本当の愛とは何か、どういったものであるのか、実際の行動によって私たちに教えてくださいました。イエス・キリストは、本当の愛とは自己犠牲的であると言います。多くの人は「愛」を自己中心的なものとして考えます。自分にとって利益があるものを「愛」、自分にとって利益のないものを「愛」ではないと定義します。評価の基準は「自分」です。しかしながら、本当の愛とは利他的です。自分ではなく相手の利益になることが「本当の愛」であり、相手の利益にならず自分の利益になるものは「本当の愛」ではありません。本当の愛とは、自分の利益を捨て、ひたすら相手の利益を追求することです。本当の愛とは、無私であり、相手からの見返りを求めない自己犠牲的なものです。イエス・キリストは実際の行動を通して、本当の愛を私たちに示してくださいました。つまりイエスは私たちの為に死んでくださったのです。
私たち人間は罪人です。生まれながらにして罪を抱えて生きています。罪の報酬は死です。罪人は死んだあと地獄へ行く運命にあります。じつは人間の中にある罪は人間の力によって取り除くことができません。ですから神様は、愛する一人子イエス・キリストをこの世に遣わし、人間の罪に対する生け贄として、イエスを十字架の上に捧げられました。十字架刑に処されたイエスは死に、よみに下り、そして三日目に復活されました。復活されたイエス・キリストは天に昇られ、神の右の座に着座されました。キリストを信じ、神を信仰する者は、イエスの死と復活の故に罪が赦され、死んだあと永遠の天国へ入ることができます。イエスは正しい人や、善良な人の為に死なれたのではありません。イエスは罪人を救う為に、罪人の為に死なれたのです。不敬虔な者のために命を投げ出す人など、この世界にはいません。しかし、イエスは不敬虔な者の為に死ぬことによって、私たちに本当の愛とは何か教えてくださったのです。イエスの愛は本物です。イエスは完全に利他的であり、自分の幸福を求められることは一切ありませんでした。
新約聖書ルカの福音書5章12-16節
さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。イエスは彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのため、モーセが命じたように、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」しかし、イエスのうわさはますます広まり、大勢の群衆が話を聞くために、また病気を癒やしてもらうために集まって来た。だが、イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた。
あるところにツァラアトという皮膚病に感染した人がイエスに助けを求めました。ツァラアトという病気は、当時、人々から非常に恐れられました。感染力が非常に強かったからです。ツァラアトに感染した患者は人々から隔離され、人々は彼らに近づこうとしませんでした。ましてや、患者の皮膚に触れることなどありえませんでした。そのような状況下で、イエスはわざわざ患者の皮膚に触れて、病気を癒されました。イエスは患者の皮膚に触れなくても癒すことができたのにも関わらずです。しかもイエスは、この奇跡を誰にも言わないように患者に厳しく言い聞かせました。普通、私たちであれば「この奇跡を多くの人々に伝えなさい」と言うのではないでしょうか。そうすれば自分の名前が売れて、有名になれたり、稼ぎが増えたりするからです。イエスは自分の利益を一切捨てて、見返りを求めずに、目の前にいる一人の人を助けられたのです。これこそが「本当の愛」です。
新約聖書ヨハネの福音書3章18節
子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。
私たちも、イエスが命がけで私たちに示された「見返りを求めない愛」を持って、人々に接していきましょう。「愛」は語ることが大事なのではなく、実践することが非常に大切です。「愛」は実践してこそ価値のあるものになります。実践あるのみです。今日、あなたが愛すべき人々は誰ですか。あなたの周りにあなたの助けを必要としている人々がいませんか。 そういった人々を無視するのではなく、自ら積極的に関わっていきましょう。この愛に冷めた世界が「愛」で満ち溢れますように。私たちの愛する日本が「愛のある社会」でありますように。すぐに国を変えることはできません。まずは私たちから、小さな変革を起こしていきましょう。塵も積もれば山となる。小さな変革が積み重なり、大きな変革を生み出します。本当の愛とはイエス・キリストです。アーメン。
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