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あなたは今、何を見ているか?


自分のことばかり考えずに貧しい者を心に留めよ!

あなたは今、何を見ていますか?


多くの人は今この瞬間「自分」を見ています。この世界はどこまでいっても弱肉強食です。強い者が多くを手に入れ、弱い者は何も持つことができません。そんな世界にあって、人は多くを手にする為に必死に生きています。少し手を緩めるならば、競争に敗れ、多くを手放すことになります。明日を生きる為に、今日と真剣に向き合うことは至極当たり前のことです。ですから、多くの人は基本的に「自分」のことで頭がいっぱいです。


自分のことで頭がいっぱいのとき、私たちは見えないのです。


私たちのすぐ近くにいる「貧しい人々」の存在が。


弱肉強食の世界に存在する人は2種類です。「持つ者」と「持たざる者」です。私たちは「持つ者」にあこがれ「持つ者」を目指します。どうすれば自分が持つ者となれるのかについて、あれこれ考えます。視点は「持つ者」と「自分」です。そこに「持たざる者」はありません。私たちには「持たざる者」が見えないのです。また、見えてはいても、見ないようにしているか、見下げているかです。しかし、この世界には必ず「持たざる者」が存在します。勝負の世界では「勝つ者」がいれば、必ず「負ける者」がいます。この世界は敗者を置き去りにして、どこまでも前に進んでいきます。そのような中で聖書は私たちに「貧しい者」を見るように促します。


新約聖書ルカの福音書 4章14-21節

 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が周辺一帯に広まった。イエスは彼らの会堂で教え、すべての人に称賛された。

 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」


神であられるイエス・キリストは、毎安息日(土曜日)に会堂で旧約聖書について教えておられました。あるときイエスは旧約聖書イザヤ書より語られました。イザヤ書にはこう書かれていました。


旧約聖書イザヤ書61章1-3節

神である主の霊がわたしの上にある。

貧しい人に良い知らせを伝えるため、

心の傷ついた者を癒やすため、

主はわたしに油を注ぎ、

わたしを遣わされた。

捕らわれ人には解放を、

囚人には釈放を告げ、

主の恵みの年、

われらの神の復讐の日を告げ、

すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。

シオンの嘆き悲しむ者たちに、

灰の代わりに頭の飾りを、

嘆きの代わりに喜びの油を、

憂いの心の代わりに賛美の外套を

着けさせるために。

彼らは、義の樫の木、

栄光を現す、主の植木と呼ばれる。


イエスはこの聖書箇所がご自分のことを指していると宣言されました。つまりイエスは、貧しい人に良い知らせを伝えるために、心の傷ついた者を癒すために、捕らわれ人を解放するために、囚人に釈放を告げるために、神の恵みと敵への復讐を告げ嘆き悲しむ者を慰めるために、嘆き悲しむ者を喜ばせるために、この世界にやって来られたということです。イエスは「持つ者」でも「自分」でもなく「待たざる者」をいつも見ていました。イエスは常に、この世の敗者である「貧しい者」を気にかけておられました。「貧しい者」を助けることこそがイエスの使命であったのです。イエスは地上にいる間、その使命を口先だけでなく行動を持って実行されました。


新約聖書ルカの福音書7章21-23節

 ちょうどそのころ、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩む多くの人たちを癒やし、また目の見えない多くの人たちを見えるようにしておられた。イエスは彼らにこう答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」


新約聖書マタイの福音書9章10-13節

 イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」


それだけではありません。イエスは「自分」という存在を完全に捨ててまで、貧しい者を助けられました。それは十字架の死によって明らかにされました。


新約聖書ピリピ人への手紙2章3-11節

 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。


イエスは貧しい者のために命さえも投げ出されました。ここでいう「貧しい者」とは、この世界に存在する全ての人間のことを意味します。私たち人間は貧しい存在です。物質的に貧しいのではありません。日本人は世界的に見て裕福な民族です。私たちは霊的な貧しさの中にいます。聖書は全ての人間は「罪人」であるといいます。私たちは「罪」を持っており、霊的に堕落しています。罪の報酬は死です。人間は罪の故に滅びる運命にあります。つまり人間は罪の故に、死んだあと地獄に落ちることになるということです。神であられるイエス・キリストは滅びる運命にある人間を救うために来られ、自分自身を人間に対する生け贄として十字架の上に捧げ、死なれ、葬られ、そして三日目に復活されました。イエス・キリストの死と復活によって、人間の罪が赦される道が開かれました。イエス・キリストを神と信じる者は罪が赦され、死んだあと永遠の天国に入ることができるようになりました。イエスは霊的に貧しい私たち人間を救うために自分の命をも捨てられたのです。


イエスはあなたにも「貧しい者」に目を留めるように勧められます。


新約聖書マルコの福音書10章21節

 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」


新約聖書ルカの福音書14章12-14節

 イエスはまた、ご自分を招いてくれた人にも、こう話された。「昼食や晩餐をふるまうのなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。彼らがあなたを招いて、お返しをすることがないようにするためです。食事のふるまいをするときには、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、足の不自由な人たち、目の見えない人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。」


新約聖書マタイの福音書25章31-46節

 人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」


イエスはあなたに「持たざる者」へ目を留めて欲しいと願っておられます。「持たざる者」へ目を留める時、あなたは諦めなければなりません。自分が「持つ者」となることを。「自分」を見ている限りは、決して「待たざる者」に目を留めることはできないからです。キリストに見習って"己"を捨て去り、貧しい人々を助ける者となりましょう。


新約聖書ヤコブの手紙2章1-7節

 私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。あなたがたの集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て、また、みすぼらしい身なりの貧しい人も入って来たとします。あなたがたは、立派な身なりをした人に目を留めて、「あなたはこちらの良い席にお座りください」と言い、貧しい人には、「あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足もとに座りなさい」と言うなら、自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となったのではありませんか。私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか。それなのに、あなたがたは貧しい人を辱めたのです。あなたがたを虐げるのは富んでいる人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名を汚すのも、彼らではありませんか。


もう「持つ者」を見ることは終わりにしましょう。心の一新によって視点を変えるのです。神様はあなたに「貧しい者」を救う者になって欲しいと心の底から願っておられます。人のために命を投げ捨てるほどの愛情深い者となりましょう!あなたが視線を少しずらすならば、あなたの助けを必要としている人々が目に飛び込んでくることでしょう!今日あなたの助けを必要としている人が必ず近くにいるはずです!!

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