あなたには友達がいますか?
独りぼっちほど寂しいものはありません。最近「一人〇〇〇〇」というのが流行っています。一人カラオケ、一人焼肉、一人映画、一人国内旅行、一人海外旅行、一人遊園地など、一人で活動することが楽しまれる時代です。私たちは日常的に多くの人と関わります。日常的にたくさんの人と接点を持つからこそ「休日を一人で満喫したい」と思うのは至極当然のことだと思います。しかしながら、平日も一人、休日も一人、ずっと一人だと、話は変わってきます。人間は一人では生きていけません。聖書は孤独に対してこんなことを言っています。
旧約聖書伝道者の書4章8-12節
ひとりぼっちで、仲間もなく、
子も兄弟もいない人がいる。
それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、
その目は富を求めて飽くことがない。
そして「私はだれのために労苦し、楽しみもなく
自分を犠牲にしているのか」とも言わない。
これもまた空しく、辛い営みだ。
二人は一人よりもまさっている。
二人の労苦には、良い報いがあるからだ。
どちらかが倒れるときには、
一人がその仲間を起こす。
倒れても起こしてくれる者のいない
ひとりぼっちの人はかわいそうだ。
また、二人が一緒に寝ると温かくなる。
一人ではどうして温かくなるだろうか。
一人なら打ち負かされても、
二人なら立ち向かえる。
三つ撚りの糸は簡単には切れない。
聖書は「一人でいることはよくない」と言います。私たちには友達が必要です。一人でいては倒れた時に起こしてくれる人がいないからです。孤独の人が倒れると、起き上がれずに倒れたままになってしまいます。だからこそ独りぼっちの人は可哀想なのです。
新約聖書ローマ人への手紙12章15節
喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。
自分が喜ぶときに一緒に喜んでくれる友達、自分が泣くときに一緒に泣いてくれる仲間がいることほど素晴らしいことはありません。「友達」とは私たちにとって最高の存在であるのです。友達がいない方は、是非、友達を作ってください。仲間を持つ努力をしてください。必死に作ろうとする人は必ず友達・仲間ができます。勇気を出して、一歩踏み出しましょう!
友人関係で最も大事なことは「愛」です。ここでいう「愛」とは「アガペーの愛」です。アガペーとはギリシャ語で「無条件」という意味です。見返りを求めない無私の愛が「アガペーの愛」です。このアガペーの愛を最もわかりやすく私たちに示してくれたのがイエス・キリストです。
新約聖書ヨハネの福音書15章13節
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
新約聖書ローマ人への手紙5章5-8節
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
新約聖書ヨハネの手紙第一4章7-10節
愛する者たち。
私たちは互いに愛し合いましょう。
愛は神から出ているのです。
愛がある者はみな神から生まれ、
神を知っています。
愛のない者は神を知りません。
神は愛だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、
その方によって
私たちにいのちを得させてくださいました。
それによって
神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、
宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
イエス・キリストは当時世界の覇権を握っていたローマ帝国によって十字架刑に処され殺されました。なぜイエスは死ななければならなかったのか。じつはイエスは私たち人間を救うために死なれました。私たち人間は罪人であり、罪の故に死んだあと地獄に落ちる運命にあります。イエスは私たち人間の地獄行きを阻止するために、自分自身を人間の罪に対する生け贄として神に捧げられました。イエスは十字架刑に処され、死に、よみに下り、そして三日目に復活し、天に昇り、神の右の座に着座されました。イエスを信仰する者は、キリストという宥めの捧げものの故に、今も生きておられるイエスから罪の赦しを頂き、死んだあと天国へ入ることができます。つまりイエスは滅びる運命にある人間を救う為に自分の命を投げ捨てられたのです。これこそ本当の愛です。イエスはご自分の行動を通して私たちに「アガペーの愛」を教えてくださったのです。私たちもイエスに見習って、見返りを求めずに友を愛することができます。聖書には困っている友達を必死になって助けた友人たちの話が登場します。
新約聖書ルカの福音書5章17,18-26節
ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」
あるところに中風の病気を患っている人がいました。中風とは、現在では脳血管障害(脳卒中)の後遺症(偏風)である半身不随、片麻痺、言語障害、手足の痺れや麻痺などを指します。彼は友達に恵まれていました。彼の友人たちは、どんな病気をも癒すと評判の高いイエスの噂を聞きつけ、彼をイエスの元に連れていきました。しかし、すでにイエスの元には噂を聞きつけた人々でいっぱいでした。普通であれば諦める状況ですが、友人たちは諦めることを選ばずに、彼を助ける為に、家の屋根に上って、屋根を壊し、彼をイエスの元につり降ろしました。その友人たちの必死さを見て感動したイエスは、彼の病気を完璧に癒されました。ユダヤ教の宗教指導者たちは、何やらごちゃごちゃ言っていますが、彼らには愛がなかったのです。彼らは自分のことしか頭になく、他人のことを気にかけることなどしませんでした。ユダヤ教宗教指導者のような「愛」を知らない者であってはなりません。困っている友達を救う為に必死に行動した、この友人たちの愛に私たちは見習うべきです。
今日、あなたの友人、仲間は、何かに困っていませんか。あなたの助けを必要としていないでしょうか。見て見ぬ振りをするのはやめましょう。イエスが命がけで示してくださった愛に見習って、友人、仲間を愛しましょう。また、友人、仲間を作らずに独りぼっちでいる人は、どうか孤独を選ばずに、友人、仲間を持ってください。友人、仲間がいることは本当に素晴らしいことです。人間は一人では生きていけません。人間同士の助け合いが本当に大切です。あなたの存在を必要としている人が必ずいます。愛しましょう。他者をを見返りを求めずに無条件で愛しましょう。イエスは「互いに愛し合いなさい」と私たちに命じておられます。どんな時も愛を忘れずに、友達が困っている時は必死に助けましょう!!
新約聖書へブル人への手紙10章25節
ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。
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