私たちは時として、自分の部をわきまえずに、出しゃばってしまうことがよくあります。特に自分が得意としている分野、好きな分野になると、急にしゃしゃり出てしまうものです。
私が私立関西大学で建築学科に在籍していた時のことです。私は建築学の中でも「設計」ではなく「構造」の分野が得意でした。建築学といっても様々な分野があるので、人によって得意分野はまちまちです。とある「構造」授業の時間、たしか大学三回生の時だったと思います。授業中に先生が私たち生徒に構造計算の問題を出しました。私は、授業中に問題を解き終え、私の導き出した答えが正解だと自負していました。ふと隣の友達を見ると、まだ問題を解き終えておらず、お手上げ状態でした。そこで私は、友達から頼まれてもいないのに出しゃばり、問題の解説を始めました。その小さな講義を終え、私は「どうだ!」と言わんばかりの得意げな顔つきで友達を見下ろしました。しかし、次の瞬間、顔から火が出るほどの羞恥心を味わうことになりました。私の導き出した答えが間違っていたのです!私はその後、必死に友達に誤り、二度と出しゃばらないと心に固く誓ったのでした。
上記のように、私たちはしばしば、出しゃばってしまい、そして失敗します。出しゃばらなければ、失敗はなかったはずです。全ての原因は、出しゃばらずに黙っておくべき場面で、出しゃばってしまったことにあります。
これは、私たち「人間」と「神様」との関係性についても当てはめることができます。私たちはしばしば、神様が行われる御業をただ黙って見ていればよいのに、そうはせず、しゃしゃり出てしまう時があります。
新約聖書ペテロの手紙第一5章5,6節
同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。
神様はしっかりと私たちの出番を整えていてくださいます。私たちがわざわざ自分から行動を起こさなくても、神様がちょうど良い時に私たちをお用いになられます。出しゃばる必要性はどこにもないのです。ただただ神の御前にへりくだり、黙って神のなさることを見ていれば良いのです。そうすれば、必ずや神様は、私たちに活躍の場を与えてくださいます。聖書には、明らかに黙っているべき時に出しゃばってしまった人物のことが書かれています。その人物とは「ペテロ」です。
新約聖書ルカの福音書9章28-36節
これらのことを教えてから八日ほどして、イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。ペテロと仲間たちは眠くてたまらなかったが、はっきり目が覚めると、イエスの栄光と、イエスと一緒に立っている二人の人が見えた。この二人がイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」ペテロは自分の言っていることが分かっていなかった。ペテロがこう言っているうちに、雲がわき起こって彼らをおおった。彼らが雲の中に入ると、弟子たちは恐ろしくなった。すると雲の中から言う声がした。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。弟子たちは沈黙を守り、当時は自分たちの見たことをいっさい、だれにも話さなかった。
ある日、イエス様は三番弟子のペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れ、山へ登られます。四人で祈っておられたところ、イエス様の御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝きました。この場面は「イエスの変容」と呼ばれています。変容したイエスは、大昔の偉人モーセとエリヤと話されます。この時のモーセは旧約聖書の律法を代表し、エリヤは旧約聖書の預言者を代表していたと言われています。三人はイエス様の十字架刑について話しておられました。この光景は、もはや現実離れしていました。なぜなら、イエスは死人と話しておられたからです。明らかに奇跡が起きていました。弟子はただ黙って奇跡を見ているべきでした。とても人間が介入して良い場面ではありません。のにも関わらず、ペテロは空気を読まずに、しゃしゃり出ました。
「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。('ω')」
このペテロの発言に対する回答がなされる前に、神様が動かれ、雲がわき起こって彼らをおおいます。すると雲の中から「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」という神様の御言葉が聞こえます。ここまできてやっと、ペテロでさえ、自分が黙っているべきであることがわかりました。弟子たちはしばらくの間、誰にもこのことを言いませんでした。
このように、時として私たちは、神様の御前にへりくだり、ただ黙っているべき時があります。私たちは、今、口を開くべきなのか、黙っているべきなのか、しっかりと周りの状況をよく観察しなければなりません。
新約聖書ヤコブの手紙1章19,20節
私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。
旧約聖書箴言17章27,28節
ことばを控える人は知識を持つ者。
霊において冷静な人は英知のある者。
愚か者でも黙っていれば、知恵のある者と思われ、
その唇を閉じていれば、分別のある者と思われる。
旧約聖書ヨブ記13章5節
ああ、あなたがたが沈黙を守っていたら、それがあなたがたの知恵となっていただろうに。
旧約聖書箴言25章11節
時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんご。
「雄弁は銀、沈黙は金」ということわざがありますが、まったくその通りです。「雄弁は銀、沈黙は金」とは、トーマス・カーライルが広めた英語のことわざであり、発話よりも沈黙の方が価値があるという意味です。話すべき時に口を開き、黙るべき時に黙っているのが、賢い選択です。しかし多くの場合、私たちは黙っているべきです。話すべき時よりも、黙っているべき時の方が圧倒的に数多いからです。何よりもまず人の話を聞くに徹しましょう。聞くのに早く、語るのに遅いことが理想の状態です。
あなたはよく出しゃばるタイプでしょうか?
自分の部をわきまえずに、しゃしゃり出るタイプでしょうか?
神様との関係性において、黙っていることも非常に大切です。神様は御心のままに奇跡を起こされます。そこへ私たち人間が介入していいわけがありません。ただ黙って神の奇跡を見ているならば、神様がちょうど良い時に私たちを用いてくださいます。
最後に、神の奇跡を見る前に、口を開いてしまったイスラエルの民の物語を見てみましょう。当時イスラエルの民はエジプトの奴隷でした。神に選ばれたリーダーであるモーセは、イスラエルの民を引き連れてエジプトを脱出します。しかし、モーセとイスラエルの民は、紅海とエジプトの兵隊に挟まれ身動きが取れなくなりました。民は耐え切れずに口を開きます。しかし、神様は民に「あなたがたは、ただ黙っていなさい。」と言われ、紅海を真っ二つに分けられ、民の逃げ道を用意されたのでした。私たちはイスラエルの民を反面教師とし、ただ黙って神の奇跡を目にする者でありたいところです。
旧約聖書出エジプト記14章
主はモーセに告げられた。「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。ファラオはイスラエルの子らについて、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言う。わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る。」イスラエルの子らはそのとおりにした。
民が去ったことがエジプトの王に告げられると、ファラオとその家臣たちは民に対する考えを変えて言った。「われわれは、いったい何ということをしたのか。イスラエルをわれわれのための労役から解放してしまったとは。」そこでファラオは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、
選り抜きの戦車六百、そしてエジプトの全戦車を、それぞれに補佐官をつけて率いて行った。主がエジプトの王ファラオの心を頑なにされたので、ファラオはイスラエルの子らを追跡した。一方、イスラエルの子らは臆することなく出て行った。エジプト人は彼らを追った。ファラオの戦車の馬も、騎兵も軍勢もことごとく、バアル・ツェフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。
ファラオは間近に迫っていた。イスラエルの子らは目を上げた。すると、なんと、エジプト人が彼らのうしろに迫っているではないか。イスラエルの子らは大いに恐れて、主に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。
主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」
主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。見よ、このわたしがエジプト人の心を頑なにする。彼らは後から入って来る。わたしはファラオとその全軍勢、戦車と騎兵によって、わたしの栄光を現す。ファラオとその戦車とその騎兵によって、わたしが栄光を現すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」イスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移動して彼らのうしろを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移動して彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に入った。それは真っ暗な雲であった。それは夜を迷い込ませ、一晩中、一方の陣営がもう一方に近づくことはなかった。
モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。エジプト人は追跡し、ファラオの馬も戦車も騎兵もみな、イスラエルの子らの後を海の中に入って行った。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱の中からエジプトの陣営を見下ろし、エジプトの陣営を混乱に陥れ、戦車の車輪を外してその動きを阻んだ。それでエジプト人は言った。「イスラエルの前から逃げよう。主が彼らのためにエジプトと戦っているのだ。」
主はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を歩いて行った。水は彼らのために右も左も壁になっていた。こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。
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