あなたは他人を信じやすいタイプですか?
それとも疑い深いタイプですか?
私自身は今現在「疑い深い」タイプです。"今現在"と言ったのは、昔はそうではなかったからです。私は昔、他人を信じやすいタイプでした。学生の頃、友達からよく「お前は本当に人を信じやすいタイプやなぁ」と言われていました。私は事実、本当に人を信じやすいタイプで、友達が言ったことを全て鵜呑みにしてしまう気質があり、かなり頻繁に友達に騙されることがありました。その頃の私は、友達の言っていることが本気なのか冗談なのか見分けがつきませんでした。私は純粋だったのです。そんな純粋な性格が裏目に出たことが二度ありました。
私が高校生の時です。私は滋賀県で生まれ育ち、滋賀県の公立高校に通っていました。滋賀県の冬は、雪降りの日が多いです。その日も雪が降っていました。高校から自宅へ向けて自転車で帰宅途中、横断歩道を渡っていると、私の元に車が突っ込んできました。横断歩道は青信号でした。雪を避ける為に傘をさしていたことと、吹雪で視界が遮られていたことにより、車が突っ込んできたことがわからなかった私は、車にひかれ、かなりの勢いで遠くの方へ飛ばされました。自転車はぐにゃっと曲がり大破したのにも関わらず、私の身体は何事もありませんでした。奇跡でした。私を車で引いた男性が車から出てきて言い放ちました。「おい!ちゃんと前見てたのか?どこ見てんだよ!あぶねぇだろうが!気を付けろ!」。この運転手の言葉は決して"事故が起こった後"に、被害者に対して投げかけてよいものではありませんでした。今から思うと、その男性は大人として"クズ野郎"でした。しかし純粋だった私は、自分が悪かったのだと思い込み「どうもすみませんでした」と謝りました。すると、男性は「次から気を付けろ!」と言いながら車に乗り、その場を去っていきました。ひき逃げでした。後から父親に警察を呼んだ方がいいとアドバイスをもらい、通報しましたが、犯人は見つかりませんでした。私の純粋さが裏目に出たのでした。
また、大学一回生の時です。私立関西大学へ入学した私は、大阪で初めての一人暮らしをしていました。初めてのマンション暮らしで右も左もわからない時に、インターネット関係のいかにも怪しい営業マンが飛び込み営業にやってきました。インターホンを鳴らした彼は「こんにちわ。お客様のインターネット代金がお安くなりましたのでご説明に参りました。」と言いました。マンションのエントランスへ出た私に営業マンは「お客様のインターネット代金がお安くなりましたので、契約を変更させて頂いてよろしいですか?」と言うので、私は「いいですよ」と答え、契約書にサインしました。するとなんと、インターネット代金が高くなったのです。完全に騙されました。インターネット契約は契約解除にかかる違約金の値段が高いので、数年間はそのまま契約し続けることになりました。この時から私は「疑い深い」人間になりました。他人を信用しても馬鹿を見るだけだと本気で思うようになりました。
このような経験が皆さんにもおありなのではないでしょうか。他人を信頼して一度でも裏切られると、もう他人を信用することができなくなります。永遠の大ベストセラーである聖書は決して「疑い深い」ことを悪いことだとは言っていません。
新約聖書マタイの福音書10章16-18節
いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。
聖書は「世の人々に用心しなさい」と私たちに言います。実際のところ世の人々は悪知恵がよく働きますから、私たちは蛇のように賢くならなければなりません。世の人々に用心し、世の人々の悪巧みを見抜き、蛇のような賢さを持って対処するのです。しかしながら、これはこの世の人々との関係性に限った話です。神様との関係性においては、私たちは鳩のように素直でいるべきです。他人のことを疑ってもいいですが、神様のことだけは絶対に疑ってはいけません。神様は私たちに疑われることを非常に嫌われます。私たちは神様のことを100%信頼するべきです。私たちが神様を完璧に信頼する時、奇跡が起こされます。次の聖書箇所を見てください。
新約聖書ルカの福音書8章40-56節
さて、イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたのである。すると見よ、ヤイロという人がやって来た。この人は会堂司であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した。彼には十二歳ぐらいの一人娘がいて、死にかけていたのであった。それでイエスが出かけられると、群衆はイエスに押し迫って来た。
そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた。彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。大勢の人たちが、あなたを囲んで押し合っています」と言った。しかし、イエスは言われた。「だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力が出て行くのを感じました。」彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、イエスにさわった理由と、ただちに癒やされた次第を、すべての民の前で話した。イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」イエスは家に着いたが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。「子よ、起きなさい。」すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。両親が驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。
イエス様の元に、とある一人の会堂司がやって来ます。会堂とは、"シナゴーグ"と呼ばれるユダヤ教の礼拝施設です。礼拝施設を司る人ですから、ユダヤ教の中では偉い人と言っても差し支えありません。そんな偉い会堂司が、イエス様に助けを求めています。会堂司の一人娘が死にかけていました。会堂司の娘の元に向かわれたイエスでしたが、病気の女性が間に割り込んだこともあり、到着前に娘が死んでしまいます。ここでイエス様が話された御言葉に注目してください。
「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」
「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」
ここでイエス様は、ご自分を信じるように促しておられます。すでに娘は死んでいます。イエス様の何を信じればいいのかよくわかりません。なぜなら娘はすでに死んでいるからです。常識的に考えれば、死んだ者は生き返りません。そんなことはオカルトの類のように思えます。しかし、それでもイエス様は「私を信じなさい」と言われるのです。娘はただ眠っているだけなのだと。他人のことを信じやすいタイプの人であっても、これだけは信じることが難しいのではないでしょうか。イエス様を疑ってしまっても仕方がありません。しかしながら、もし本当に会堂司がイエスを疑い、イエスを自宅へ招かなかったとしたら、事態はどうなっていたでしょうか。おそらく、娘は死んだままだったと思います。奇跡は起こらず、娘の死を嘆き悲しむ人々の涙で葬儀場が満たされたことでしょう。明らかに会堂司がイエスを信用・信頼し、イエスを自宅へ招いたからこそ、このような最悪の状況を回避することができ、それだけにとどまらず娘が生き返るという奇跡を目にすることができました。このことからわかるように、神様との関係性においては、私たちは蛇のように賢くあるのではなく、鳩のように素直であるべきです。私たちが神様を100%信用・信頼する時に奇跡が起こされます。
新約聖書マタイの福音書7章7-11節
求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。
私たちは、ただ神を信じ、神に求めればいいのです。そうすれば神様は私たちに最高のものを与えてくださいます。神様に不可能なことは一つもありません。神様にできないことは何もありません。神様はどんなことでも、何でもおできになるお方です。もしかしたら裏切られるかもしれないと恐れないで、少しも疑わずに神様を信じましょう!そうすればあなたは今まで見たこともない大きな奇跡を目にすることでしょう!!
Comments