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辛抱強く待つ者に神は必らず現れてくださる


主人の帰りを忠実に待つ犬

あなたは「待つこと」が好きでしょうか?


人生は「待つ」ことの連続です。待つことが好きであろうが、嫌いであろうが、そういったことに関係なく、私たちは日々、待たなければなりません。日本の有名な詩人、書家である「相田みつを」さんの作品に、このような詩があります。


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待ってもむだな ことがある

待ってもだめな こともある

待ってむなしき ことばかり

それでもわたしは じっと待つ

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実際のところ、私たち人間は「待つ」ことが非常に苦手です。特に現代社会では何事も「スピード」が最重要視されます。都会では10分間に1本以上の電車が駅に来ます。田舎では1、2時間に1本来れば良い方だというのにも関わらず、都会人は少し電車が遅れただけでイライラします。全てにおいてスピードが極限まで上げられたこの世界で「待つこと」ができる人はどんどん少なくなってきている気がします。そのような現代社会において永遠の大ベストセラーである聖書は「待ちなさい」と言います。何を待つのか?それは「イエス・キリストが再びやって来られるのを」です。


新約聖書ルカの福音書12章35-48節

 腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。主人が真夜中に帰って来ても、夜明けに帰って来ても、そのようにしているのを見てもらえるなら、そのしもべたちは幸いです。このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、泥棒の来る時間を知っていたら、自分の家に押し入るのを許さないでしょう。あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。」

 そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか。」主は言われた。「では、主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。もし、そのしもべが心の中で、『主人の帰りは遅くなる』と思い、男女の召使いたちを打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めるなら、そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ報いを与えます。主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。


イエス・キリストは十字架刑に処され死なれましたが、三日目に復活されました。復活されたイエス・キリストは天に昇られ、神の右の座に座られました。イエス・キリストはこの世界をさばき、治める為に、再び地上に降りてこられます。これを「キリストの再臨」と呼びますが、再臨の時、キリストを信仰する者は天国へと導かれ、キリストを信仰しない者は罪に定められ、さばかれ、地獄へと導かれることになります。キリストの再臨は、キリスト者にとっては喜び、信じない者にとっては絶望です。ですから、私たちキリスト者は喜んでキリストの再臨を待ち望んでいます。しかしながら、キリストの再臨はこの2000年の間、起こっていません。いつイエス様が地上にやって来られるのか、私たちにはわかりませんし、予想もできません。イエス様はある日突然やって来られるのです。2000年間待っても来られないのですから、どれだけ私たちに忍耐力が必要なのでしょうか。


旧約聖書に登場するイスラエル初代国王サウルは「待つ」ことに大失敗し、国王の座を失いました。


サムエル記第一13章5-14節

 ペリシテ人はイスラエル人と戦うために集まった。戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように数多くの兵たちであった。彼らは上って来て、ベテ・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた。イスラエルの人々は、自分たちが危険なのを見てとった。兵たちがひどく追いつめられていたからである。兵たちは洞穴や、奥まったところ、岩間、地下室、水溜めの中に隠れた。あるヘブル人たちはヨルダン川を渡って、ガドの地、すなわちギルアデに行った。しかしサウルはなおギルガルにとどまり、兵たちはみな震えながら彼に従っていた。

 サウルは、サムエルがいることになっている例祭まで、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで、兵たちはサウルから離れて散って行こうとした。サウルは、「全焼のささげ物と交わりのいけにえを私のところに持って来なさい」と言った。そして全焼のささげ物を献げた。彼が全焼のささげ物を献げ終えたとき、なんと、サムエルが来た。サウルは迎えに出て、彼にあいさつした。サムエルは言った。「あなたは、何ということをしたのか。」サウルは答えた。「兵たちが私から離れて散って行こうとしていて、また、ペリシテ人がミクマスに集まっていたのに、あなたが毎年の例祭に来ていないのを見たからです。今、ペリシテ人がギルガルにいる私に向かって下って来ようとしているのに、まだ私は主に嘆願していないと考え、あえて、全焼のささげ物を献げたのです。」サムエルはサウルに言った。「愚かなことをしたものだ。あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。しかし、今や、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。主があなたに命じられたことを、あなたが守らなかったからだ。」


イスラエルの強敵ペリシテ人の大軍がイスラエルに攻撃をしかけようと集結しました。恐れに取りつかれたイスラエルの民たちは、イスラエルの神に助けを求めようとしました。当時、神への礼拝を遂行できるのは特別に選ばれた聖職者である"祭司"だけでした。サウル王は祭司サムエルを待たなければなりませんでした。しかし、待てど待てど、サムエルは現れません。イスラエル軍の恐れは最高潮に達し、兵たちは恐れおののいて戦いの場から逃げ出しそうになりました。しびれを切らしたサウル王は、聖職者ではないのにも関わらず、なんと自ら神様に生け贄を捧げてしまいました。そこへ祭司サムエルが登場。グッドタイミングですね。まるで全てを見ていたかのようです。神様はサウル王へ怒りを燃やし、結果サウル王は王座をダビデに譲らなければならなくなりました。サウル王の落ち度は忍耐して待てなかったことです。いかに「待つこと」が私たちキリスト者にとって非常に重要であるのかがおわかり頂けたことと思います。


幸いなことに聖書には、最後まで忍耐して待ったことにより、約束のものを得た人物が登場します。シメオンという人物です。


新約聖書ルカの福音書2章22-35節

 そして、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子をエルサレムに連れて行った。それは、主の律法に「最初に胎を開く男子はみな、主のために聖別された者と呼ばれる」と書いてあるとおり、幼子を主に献げるためであった。また、主の律法に「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」と言われていることにしたがって、いけにえを献げるためであった。

 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。

「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、

 しもべを安らかに去らせてくださいます。

 私の目があなたの御救いを見たからです。

 あなたが万民の前に備えられた救いを。

 異邦人を照らす啓示の光、

 御民イスラエルの栄光を。」

父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」


シメオンは救い主であられるイエスに会うまでは決して死ぬことはないと神様によって約束されていました。彼はじっとこの約束が果たされるのを待っていました。彼への約束が果たされたのは、シメオンの人生のほとんど終盤でした。彼は一生をかけて救い主との対面を忍耐して待っていたのです。彼はサウル王とは異なり、最後まで待つことにより約束のものを得ました。


イエス・キリストは必ず再びやって来られます。しかし、キリストの再臨がいつかはわかりません。私たちに必要なのは、ただじっと待つことだけです。再臨のとき、キリストを信仰する者は必ず天国へ導かれます。これは神様が約束なされたことです。神様が約束を破られることなど決してありません。最後まで忍耐して待つ者は、必ず神様から祝福を受け取ることができます。私たちも信仰者シメオンのように「キリストを待つ者」でありたいと願います。


最後まで忍耐してじっと待ちましょう!主の日は近いのです!!


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