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あなたの敵を愛しなさい!!


イエス・キリストに見習ってあなたの敵を愛しなさい!

あなたには嫌いな人がいますか? 苦手な人がいますか?


人間関係には問題が付き物であり、人間同士の相性の良し悪しは必ずあるので、おそらくあなたには、嫌いな人、苦手な人がいらっしゃることと思います。


人は無意識に他者を「良い人」か「悪い人」に分類します。そのグループ分けのポイントは「自分に良くしてくれるか、良くしてくれないか」です。人は自分に良くしてくれる人を「良い人」と判断し、好きになります。しかし、人は自分に良くしてくれない人を「悪い人」と判断し、嫌いになります。そして、「良い人」とは進んで仲良くし、「悪い人」とは距離を置き、関わらないようにします。人によっては「悪い人」に分類した人の悪口を周りの人々に言いふらしたり、あからさまに嫌がらせをしたりします。人間関係はまるで鏡のようです。人は自分に良くしてくれる人には良くし、自分に良くしてくれない人には良くしません。ですから、どの人間関係にも対立や争いが絶えません。世界から戦争が無くならないのも、そのためです。


多くの人は言います。「自分の好きな人とだけ関わればいいよ。嫌いな人とは無理して関わらなくていいから。」。しかし、本当にそれでいいのでしょうか。嫌いな人、苦手な人を避け、好きな人とだけ関わることが、本当に正しいことなのでしょうか。永遠の大ベストセラーである聖書は「それではダメだ」と言います。聖書にはこう書かれています。「あなたの敵を愛しなさい。」と。


新約聖書ルカの福音書6章27-38節

 しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。あなたの上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたのものを奪い取る者から、取り戻してはいけません。人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに貸しています。しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。

 さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」


聖書は「嫌いな人、苦手な人」と距離を置くことを推奨してはいません。また「嫌いな人、苦手な人」を悪く言うことも推奨してはいません。むしろ聖書は「嫌いな人、苦手な人」を愛するように、積極的に関わるように教えています。また、自分に敵対し、嫌がらせをしてくる人に良くするように教えています。私たちが暮らすこの世の中では「やられたらやり返す、倍返しだ!」が当たり前の考え方ですが、聖書は全く逆の考え方を提示します。


新約聖書ローマ人への手紙12章14,17-21節

あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。


新約聖書テサロニケ人への手紙第一5章15節

だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。


聖書は、悪に悪をもって報復するのではなく、悪には善をもって対処し、呪うのではなく祝福しなさいと言います。これを聞いた人は「冗談じゃない!」と思うかもしれませんが、聖書は本気です。自分に良くしてくれる人を愛するのは非常に簡単です。それは誰もがしています。しかし、自分に良くしてくれない人を愛するのは至難の業です。聖書は「敵を愛せ」と言います。敵を愛するとは、敵が望むことをしてあげることです。敵から右の頬を打たれたら、報復せず、そっと左の頬を差し出します。上着を奪い取られたら、取り返すのではなく、下着も進んで与えます。敵の希望を実現させてあげることが、敵を愛するということです。普通は、人から何か嫌なことをされたら、その人を悪く言うものですが、その人を断罪せず、何も言わずに赦して、祝福し、相手の幸せの為に行動することが、本当の愛だと言えます。聖書がいう愛とはギリシア語で「アガペー」です。日本語に訳すと「無条件、自己犠牲的、無私」です。自分の幸せを投げ捨てて、ただただ相手の幸せを追求するのことが本当の愛です。「そんなの無理だ!」と思うでしょうか? そうですね。人間には無理です。私たちは、どこまでいっても自己中心的な生き物です。自分が可愛くて仕方ありません。私たちには「アガペーの愛」を実践することはできません。しかし、神は違います。神であればできます。私たちには「神の愛」が必要であるのです。


新約聖書ルカの福音書23章32-43節

 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。

 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」


神であられるイエス・キリストは、当時イスラエルを支配していたローマ帝国によって十字架刑に処され殺されました。罪状は「ユダヤ人の王と名乗ることによるローマ帝国への反逆罪」でした。実際のところイエスは何の罪も犯していませんでした。無罪のイエスは、鞭打たれ、人々から嘲られ、十字架を運ばされ、十字架に釘で張り付けにされました。普通であれば、冤罪でそこまでされたのなら、その人は人々を呪うはずです。しかしイエスは人々を呪うのではなく、逆に「父よ、彼らをお赦しください」と言って人々を祝福されました。イエスは十字架刑から逃れることは十分にできましたが、そうはなさらず、むしろ自ら進んで十字架刑に処されました。なぜか。それは、人々の命を救う為でした。


新約聖書ペテロの手紙第一2章18-25節

 しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。


人間は罪人であり、罪の故に滅びる運命にあります。罪の報酬は死です。罪人は死んだあと地獄へ落ちます。地獄行きの運命にある人間を救う為に、神であられるイエス・キリストが地上にやって来られ、人間の罪に対する生け贄としてご自身を十字架の上に捧げられ、死に、そして三日目に復活され、天に昇られました。イエスという捧げものによって、人間の罪が赦され、天国への道が開かれました。イエスを神と信仰する者は、罪が赦され、死んだあと永遠の天国へと入ることができます。イエス・キリストは滅びる運命にあった人間を救う為に、わざわざ十字架刑に処され、死んでくださったのです。これが本物の愛です。


新約聖書ローマ人への手紙5章5-11節

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。


新約聖書ヨハネの福音書15章13節

人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。


新約聖書ヨハネの手紙第一3章16節,4章7-10節

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。


イエスは、正しい善良な人々の為ではなく、不敬虔な罪人の為に死なれました。つまり、イエスは敵を救う為に、ご自分の命をも差し出されたのです。これが「敵を愛する」ということです。


もう一度聞きます。あなたには嫌いな人、苦手な人がいますか? 敵はいますか?神様はあなたにその人たちを愛して欲しいと願っておられます。人間にはできません。ですから、私たちには「神の大きな愛」が必要です。神を信仰する者は、聖霊様の働きによって、神の大きな愛によって敵を愛することができます。あなたの敵を大いに愛しましょう!神様は、あなたが敵を愛する姿を見て大変喜ばれ、あなたを大いに祝福してくださいます!!

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