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執筆者の写真鳥元 剛志 -torimoto tsuyoshi-

あなたは子離れできるか?それとも自分の子に依存するか?


子供を愛するあまり子離れできない親

子供は私たち親が気付かないうちに急速に成長していきます。子供が育つのは本当にあっという間です。昨日まであんなに小さくて、かわいらしくて、私たちの助けがなければ生きてはいけなかったのに、ふと気が付くと想像以上に大きくなっていて、私たち親の手の届くところを超えて、自らの力で人生の荒波を乗り越えていきます。子供は知らず知らずのうちに私たち親の元から巣立ちます。しかし、私たち親の心はというと、なんとも複雑なもので、いつまで経っても子供を手放せないでいます。


旧約聖書詩編127編3-5節

見よ 子どもたちは主の賜物

胎の実は報酬。

若いときの子どもたちは

実に 勇士の手にある矢のようだ。

幸いなことよ 矢筒をその矢で満たしている人は。

彼らは門で敵と論じるとき 恥を見ることがない。


子供は次第に親元から巣立っていくのに、親がいつまで経っても子供を手放すことができない要因は、私たち親の子供に対する意識にあります。子供を手放せない親は自分の子供を"自分のもの"と考えます。自分のものであるからこそ、自分の手元に置いておきたいのです。しかし、実際のところ、子供は神様から与えられたもの、つまり”神様のもの”です。確かに、子供は私たち親の精子と卵子が結び合わされることによって誕生します。「自分の精子と卵子から誕生したのだから、自分のものだ!」と主張することもできます。しかしです。親の精子と卵子が出会う前から、すでに子供が存在したとすればどうでしょうか?


旧約聖書詩編139編13-16節

あなたこそ 私の内臓を造り

母の胎の内で私を組み立てられた方です。

私は感謝します。

あなたは私に奇しいことをなさって

恐ろしいほどです。

私のたましいは それをよく知っています。

私が隠れた所で造られ

地の深い所で織り上げられたとき

私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。

あなたの目は胎児の私を見られ

あなたの書物にすべてが記されました。

私のために作られた日々が

しかも その一日もないうちに。


旧約聖書エレミヤ書1章4-5節

次のような主のことばが私にあった。

「わたしは、あなたを胎内に形造る前から

 あなたを知り、

 あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、

 国々への預言者と定めていた。」


親の精子と卵子が出会う前から、すでに神様はその子供を設計され、その子の人生を計画しておられました。その子の親を決められたのは神様です。特定の精子と卵子を結び合わされたのも神様です。全てが神様のご計画とお力によって進められた御業です。私たち親の性行為のタイミングを決められたのも神様です。つまり、子供は私たち"親が作ったもの"ではなく、"神様によって与えられたもの”、もっと言うなれば”神様のもの”であるのです。


もし私たち親が自分の子供を”神様のもの”であると認識し、神様から預かった子として育て上げるならば、子供が自分の元を巣立つとき、快く手放せることでしょう。


かといって、じゃあ誰しも快く愛する我が子を手放せるかというと、そうではありません。手放せない人の方が大半だと思います。しかし、安心してください。イエスの母マリアも同じような状況のなかで同じような葛藤を味わいました。


新約聖書ルカの福音書2章41-52節

 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。

 イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。


過ぎ越しの祭りがやってきました。過ぎ越しの祭りとはユダヤ教三大祭りの一つで、モーセ率いるイスラエルの民がエジプトの支配から解かれたことをお祝いする日です(厳密に言うなれば、神様がエジプト中の赤ん坊を殺される中、イスラエルの民の赤ん坊だけは救ってくださったことをお祝いする祭りです)。過ぎ越しの祭りの日には、イスラエル中の民が聖地エルサレムへ集まります。12歳になられたイエスも両親に連れられてエルサレムを訪れます。12歳ですから、両親のヨセフとマリアはイエスを子ども扱いしていたはずです。しかし、そこにいたのは未熟で、弱く、助けが必要な一人の子供ではなく、ユダヤ教宗教指導者をも仰天させるほどの知恵を持った一人のたくましい青年でした。しかもイエスは両親に「わたしが父の家にいるのは当然ではないか」とまで言われます。ここでいう「父」というのは神様のことです。ですからイエスは両親に「わたしは神の子である」と言われたことになります。ヨセフとマリアは12歳のイエスを”我が子である”と認識していたに違いありません。しかし実際はイエスは”神の子”でした。おそらくヨセフとマリアは戸惑ったはずです。また、どんどん成長して自分の手元から離れていくイエスの姿を見て複雑な気持ちになったはずです。手放さないとだめだとは思っているけれども手放すことができないことに対して葛藤の気持ちがあったはずです。この後、イエスの母マリアは様々な葛藤を乗り越えて最終的にイエスを手放すことになります。私たちもイエスの母マリアの姿勢に見習うことができます。


旧約聖書サムエル記第一1章10-11節

ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」


旧約聖書サムエル記第一1章26-28節

ハンナは言った。「ああ、祭司様。あなたは生きておられます。祭司様。私はかつて、ここであなたのそばに立って、主に祈った女です。この子のことを、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。それで私もまた、この子を主におゆだねいたします。この子は一生涯、主にゆだねられたものです。」こうして彼らはそこで主を礼拝した。


旧約聖書に登場する偉大な預言者サムエルの母ハンナは、不妊の女で、長年非常に苦しみました。ハンナは神様と「生まれた子は神様にお捧げする」という約束を交わし、ついにサムエルを授かります。その約束通りハンナはサムエルを神様にお捧げしたのでした。私たちもハンナに見習って”神様のもの”である我が子を大胆に快く手放そうではありませんか。手放された子供はどこまでも高く大空へ飛び立つことでしょう!神様から一時的に預けられた子を神様にお返ししましょう!


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