あなたは家族を愛していますか?
おそらく愛していることでしょう。自分の家族を愛することは非常に良いことです。世界中のどこを探しても、家族ほど深い絆で結ばれた人はいないでしょう。家族は、私たちが属する共同体の最小単位です。私たちの生活は家族を中心に回っています。家族がいることは私たちに力と勇気を与えてくれます。家族がいるからこそ、私たちは日々の生活に前向きな気持ちで向き合うことができます。少々つらいことがあっても、家族がいるから頑張れます。家族という存在は、私たちにとって「力の源」であるのです。家族って最高ですね。
しかしです。「信仰を持つ」ことは「家族を捨て去ること」につながる可能性があります。神様は「信仰を持とうとする者」へ「その覚悟」を問われます。神様は言われます。
新約聖書ルカの福音書14章25-33節
さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。
新約聖書ルカの福音書18章28-30節
すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分のものを捨てて、あなたに従って来ました。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、必ずこの世で、その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます。」
新約聖書マタイの福音書6章24節
だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。
つまり、全てを捨て去る覚悟がなければ「キリストの弟子」になることはできないということです。神様以外の物を大事にしながら「神を信仰すること」はできません。どちらか片方を愛することになるからです。キリストの弟子になるには、自分の全財産をも捨て去る覚悟が必要なのです。そこにはあなたの"家族"も含まれます。イエス・キリストはご自分の家族に対してかなり厳しいことをおっしゃられました。
新約聖書マタイの福音書12章46-50節
イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」
イエスは実の母と兄弟を「家族ではない」と言い、信仰を持つ者を「家族である」と言われました。イエスは信仰の故に家族をも捨て去られたのです。これはなにも「信仰を持つ者は必ず家族を捨てなさい」と言っているわけではありません。家族を大事にすることは信仰上、非常に重要なことです。実際、聖書は自分の家族を大切にすることを推奨しています。そうではなく、信仰を持つ上で家族が邪魔になるのならば、信仰の故に家族をも捨て去る覚悟を持たなければならいということです。例えばです。あなたが信仰を持とうと決心するとき、あなたの家族が猛烈に反対するならば、あなたは信仰か家族かどちらか一方を選ぶことになります。家族を選ぶならば、信仰を持てません。信仰を持つならば、家族を捨て去ることになります。究極の二択です。このような状況で信仰を持つには、相当の覚悟が必要です。信仰を持つということには、全てを捨て去る覚悟が必要なのです。家族を捨て去ることは非常につらいことです。胸が引き裂かれる思いになるはずです。家族だけではありません。もしかすると信仰を持つことにより仲の良い友達をも捨て去ることになるかもしれません。仲の良い友達を捨て去るのは非常につらいことです。じつはイエス様も故郷の人々から侮辱され、このような葛藤の中を通られました。
新約聖書ルカの福音書4章16-30節
それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。そこでイエスは彼らに言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』と言うでしょう。」そしてこう言われた。「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ、立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした。しかし、イエスは彼らのただ中を通り抜けて、去って行かれた。
故郷ナザレに帰郷されたイエスは、自分が救い主であることを宣言すると人々から嘲笑の的にされました。なぜならナザレの人々はイエスのことをよく知っていたからです。彼らにとってイエスは、ただの大工ヨセフの息子に過ぎなかったのです。ナザレの人々はイエスに「カぺナウムで行った奇跡をここでも見せてみろ」と言いたげであったので、イエスは「ここでは奇跡を行わないし、あなたがたは救われない」と先に宣言されました。このイエスの発言に対して怒ったナザレの人々は、イエスを崖から突き落とそうとし、イエスは難なく逃れたのでした。
信仰を持つことに対して、必ずしも家族や友達から歓迎されるとは限りません。むしろ強い反対にあったり、嘲笑されるかもしれません。時として、あなたは信仰の故に家族をも捨て去らなければならないかもしれません。どうか覚悟を決めてください。信仰の為に全てを捨て去る覚悟を持ってください。家族と信仰の両方を取ることはできません。神様は、全てを捨て去る覚悟を伴った信仰を大いに喜ばれます。家族や友達、その他のことが気になって未だ信仰を持つに至っていない方がいらっしゃるならば、勇気を出して一歩を踏み出してください!その信仰による一歩を神様が大いに祝福してくださいます!神様は必ずや、あなたが捨て去ったものを何倍にも増して、あなたに与えてくださることでしょう!!
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