あなたはイエス・キリストを神と信じるか信じないかで迷っていますか?
悩む気持ちはわかります。なにせ私も昔、同じことで悩みましたから。私は大学一年生の時に初めてキリスト教会へ行きました。それまでの私はキリスト教とは無縁の人生を送っていましたから、人生初の教会は衝撃的でした。初めての教会で私は牧師先生から「天地創造」の話を聞かされました。その話を聞き終えた時、何か違和感を感じ、「うわぁ宗教やん。やばいやばい。洗脳されるわ。こりゃ早めにとんずらした方がええなぁ。」と心の中で考えたのを今でも覚えています。そこから、洗脳への恐怖感がありつつも教会に通い続け、3か月後には信仰告白をしました。しかしながら、その信仰告白は本心からのものではなく、その場のノリによるものなので、私はイエス・キリストを神と信じてはいませんでした。私がイエス・キリストを神と心の底から信じたのは、それから二年後のことでした。結局のところ、私が初めて教会へ行ってからイエスを神と本気で信じるまで、じつに「二年半」の年月を要しました。イエスを神と信じるには、長い年月が必要であるのです。特に、キリスト教のバックボーンがない日本人はなおさら時間がかかります。イエスを神と信じるか信じないかで迷う方の気持ちが私は非常にわかります。
イエスを神と信じるか信じないかで悩むのは、何もあなただけではありません。イエス様が地上で生活しておられた間、イエス様を取り巻く人々も同じように悩みました。次の聖書箇所を見てください。
新約聖書ルカの福音書7章18-35節
さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。すると、ヨハネは弟子たちの中から二人の者を呼んで、こう言づけて、主のもとに送り出した。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」その人たちはみもとに来て言った。「私たちはバプテスマのヨハネから遣わされて、ここに参りました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか』と、ヨハネが申しております。」ちょうどそのころ、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩む多くの人たちを癒やし、また目の見えない多くの人たちを見えるようにしておられた。イエスは彼らにこう答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
ヨハネの使いが帰ってから、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。では、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。きらびやかな服を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。では、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者をです。この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。わたしはあなたがたに言います。女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません。しかし、神の国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえ彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。ところが、パリサイ人たちや律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けず、自分たちに対する神のみこころを拒みました。
それでは、この時代の人々を何にたとえたらよいでしょうか。彼らは何に似ているでしょうか。広場に座り、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてあげたのに、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに、泣かなかった。』バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは『あれは悪霊につかれている』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。」
バプテスマのヨハネは、キリストがやって来られる前準備を整えたことで有名な人物です。旧約聖書にはバプテスマのヨハネの登場があらかじめ預言されていました。
旧約聖書イザヤ書40章3-5節
荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる。」
キリストが来られる前準備を整えたヨハネでさえ、イエス・キリストが本当に神なのかどうかわかりませんでした。わからなかったので彼はイエスの元にしもべを遣わし、イエスが神なのかどうか真偽を確かめました。そこでイエスは「私の行動を見なさい。私こそ旧約聖書で預言されていた救世主(メシア)であり神である。」と答えておられます。イエスの行動を見れば、イエスが誰であるのかは一目瞭然です。
旧約聖書イザヤ書61章1-3節
神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる。
新約聖書ルカの福音書4章16-21節
それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」
イエス・キリストは、目の見えない者たちを見えるようにし、足の不自由な者たちを歩けるようにし、ツァラアトに冒された者たちをきよめ、耳の聞こえない者たちを聞こえるようにし、死人たちを生き返らせ、貧しい者たちに福音を伝えました。このことは旧約聖書イザヤ書61章1-3節に記載のある救世主(メシア)の姿とかぶります。つまり、イエス・キリストは旧約聖書で預言されていた救世主(メシア)であり「神」であるのです。
また、イエス様はバプテスマのヨハネの偉大さを褒められます。バプテスマのヨハネを通してたくさんの人々が罪を悔い改め、洗礼を受けました。しかし、これとは対照的にパリサイ人や律法の専門家などのユダヤ教宗教指導者たちはバプテスマのヨハネを拒絶しました。彼らはなぜヨハネを受け入れられなかったのか。それは彼らが「自分は完璧に正しい者であり、罪を悔い改める必要性はない」と思い込んでいたからです。彼らは高慢になり、自分を正当化しました。彼らは高ぶっていたので、神様のご意志を受け入れることができませんでした。よって彼らはイエス・キリストを神と信じることができませんでした。
このようにイエス様の周辺を取り巻いていた人々も、私たちと同じようにイエスを神と信じるのかどうかで迷いました。ある人は信じましたが、ある人は信じませんでした。多くの場合、自分自身の罪を認めた者はイエスを神と信じました。しかし、自分自身の罪を認めず、自分を正当化する者はイエスを神とは信じませんでした。
何もあなただけが迷っているのではありません。2000年以上前から多くの人々があなたと同じように悩んできました。イエス様は迷っているあなたに言われます。「私は救世主(メシア)であり、神である。もし信じられないならば、私が過去に行った、また今も行っている業を見なさい。私が"それ"であるのは明確だ。業の故に私を信じなさい。」
ヨハネの黙示録3章20節
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
イエス様は、あなたがご自分を神と信じることを待っておられます。イエス様はあなたの心の扉をノックし続けておられます。扉を開けるのはあなたの選択です。もしあなたが心の扉を開けるならば、イエス様はあなたの心の中に入り、食事を共にしてくださいます。信じない者ではなく、信じる者になりましょう。イエスは旧約聖書で預言されている救世主(メシア)であり、真の神です。この方以外に救い主は存在しません。 イエスを神と信じ、罪赦され、永遠のいのちを手に入れましょう。永遠の天国があなたを待っています!!
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