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執筆者の写真鳥元 剛志 -torimoto tsuyoshi-

オオカミの群れから子羊を救出しなさい!さあ行くのです!!


オオカミの群れから子羊を救出しなさい!さあ行くのです!!

私たちが暮らすこの世界は今現在、オオカミが支配しています。


ここで言うオオカミとは「悪魔」のことです。


新約聖書ペテロの手紙第一5章8-11節

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。


悪魔はまるでライオンのように、獲物を探して地上を徘徊しています。悪魔の願いは「一人でも多くの人間を罪に堕落させ、地獄送りにすること」です。悪魔の標的にされた人々は、悪魔から誘惑を受け、罪に堕落し、すでに悪魔の支配下に加わりました。悪魔は今もなお自分の配下に加わる手下を探し回っています。


しかしながら、全ての人間が悪魔の支配下に落ちたわけではありません。この世界には子羊もいくらか存在します。子羊はオオカミの群れの中で静かに身をひそめ、ひっそりと隠れています。オオカミにとって子羊は大好物です。子羊はオオカミに食べられないように、ただじっと誰かの助けを待っている状況です。


そんな子羊たちのSOSサインを見た神様が、子羊たちをオオカミから救出するために、私たちキリスト者を地上に遣わされました。次の聖書箇所を見てください。


新約聖書ルカの福音書10章1-15節

その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた。そして彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。財布も袋も持たず、履き物もはかずに行きなさい。道でだれにもあいさつしてはいけません。どの家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。そこに平安の子がいたら、あなたがたの平安は、その人の上にとどまります。いなければ、その平安はあなたがたに返って来ます。その家にとどまり、出される物を食べたり飲んだりしなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。

どの町に入っても、人々があなたがたを受け入れてくれたら、出された物を食べなさい。そして、その町の病人を癒やし、彼らに『神の国があなたがたの近くに来ている』と言いなさい。しかし、どの町であれ、人々があなたがたを受け入れないなら、大通りに出て言いなさい。『私たちは、足に付いたこの町のちりさえ、おまえたちに払い落として行く。しかし、神の国が近づいたことは知っておきなさい。』

あなたがたに言います。その日には、ソドムのほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。

ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって座り、悔い改めていたことだろう。しかし、さばきのときには、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。


オオカミの群れの中で助けを求めている子羊を「平安の子」と言います。その平安の子を悪魔の支配から救い出すために遣わされたのが私たちキリスト者ですが、残念ながら私たち自身も子羊のような存在です。とてもじゃないですが、恐ろしいオオカミがうじゃうじゃいる中で、私たち子羊が他の子羊を救出するのには無理があります。ですから私たちキリスト者は、自分の力ではなく、神様の偉大な力により頼む必要性があります。私たち子羊がライオンのように力強い神様の御力を借りる時、並外れた力を発揮することができ、他の子羊たちを救出することができます。だからこそ私たちは、財布も袋も持たず、履き物もはかずに、ただただ神様だけを頼りにして救出大作戦を遂行しなければなりません。この作戦は遊びではありません。ですから、旅の途中で遊び気分になって誰かにあいさつすることがあってはなりません。そして、いついかなる時でも悪魔の攻撃に対抗できるように、神の武具を常に身に付けなければなりません。


新約聖書エペソ人への手紙6章10-20節

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。


この救出大作戦は、私たち「神に着き従う子羊」と「悪魔」との全面戦争なのです。この戦いに丸腰で勝てるはずがありません。私たちには戦う為の武具が必要です。神の武具を取りましょう!


神の武具を身に着けた後、どのように子羊を救出すれば良いのか。


それは福音宣教によってです。


福音宣教とは、読んで字のごとく「福音」を「宣べ伝える」ことです。福音とは何だったかといえば、下記の聖書箇所が最も正しく福音を表現していると言えるでしょう。


新約聖書コリント人への手紙第一15章1-11節

兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。


イエス・キリストが私たちの罪に対する生け贄としてご自身の身体を十字架の上に捧げられ十字架刑によって死なれたこと、そして三日目に復活され、天に昇り、神様の右の席に座られたこと、そのことによってイエス・キリストを信仰する者には罪の赦しが与えられ永遠の天国へ導かれること、これが「福音」です。この福音を宣べ伝えることが福音宣教であり、オオカミの群れから子羊を救い出す手段です。私たちは平安の子に福音を宣べ伝えることによって、悪魔の支配から神様の支配の中へ彼らを引っ張り出すのです。


新約聖書ヨハネの福音書3章16-21節

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。


新約聖書ローマ人への手紙10章8-17節

では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。


あなたがオオカミの群れに対して「福音」を宣べ伝えるとき、悪魔の支配下にある者はあなたに反抗します。しかし、オオカミの群れの中に紛れ込んだ子羊はあなたの元にやって来ます。闇の子は光から離れます。光の子は光の元に吸い寄せられます。光と闇は交わることがないからです。あなたがオオカミたちに宣教し、彼らが福音を受け入れなかったからと言って失望する必要は一切ありません。福音を宣べ伝えたあなたに何の責任もなく、全ての責任は福音を受け入れなかったオオカミたちにあります。彼らの罪は彼らの頭の上に下ります。福音を受け入れなかった者は、罪が赦されないので神様からさばかれ、地獄へ落とされます。


さあ、行くのです!あなたの助けを待ち望んでいる子羊たちがたくさんいます。神様はあなたに福音宣教の使命を与えておられます。あなたが行かなければ、子羊たちはオオカミたちに食べられてしまいます。事は一分一秒を争います。一人でも多くの命を救う為に、私たちは命がけで福音宣教の使命を担うべきです。あなたを待っている人々がいます。今日、あなたのできることをしましょう。一人でも多くの子羊たちをオオカミの群れから助け出しましょう!神の武具を身に着け、悪魔たちと戦いなさい!!



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