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執筆者の写真鳥元 剛志 -torimoto tsuyoshi-

クリスチャン同士で争うのはやめなさい!!!!


クリスチャン同士で争うのはやめなさい!!!!

日本にはキリスト教信者が非常に少なく、その人口は総人口の1%ほどであると言われています。


私たち日本人キリスト者は、日本の地ではごく少数派です。絶滅危惧種であると言っても過言ではありません。本来であれば、少数派の私たち日本人キリスト者は一致団結すべきです。しかしながら、現実は一致団結するどころか、仲間割れしている状態です。


まず大きく分けて、三つの仲間割れが存在します。「カトリック」と「プロテスタント」と「オーソドックス」の三つです。この分裂は日本のみならず、世界規模のものです。キリスト教は2000年以上に及ぶ長い歴史の中で、3つの教派に分裂しました。東方諸教会を含めると4教派とも言えます。それだけではありません。カトリック、プロテスタント、オーソドックス、東方諸教会の中でも、それぞれ分派が存在します。ですから、すでにキリスト教の中には大量の教派が存在します。その影響は日本にも及び、日本のキリスト教にも多くの教派が存在します。


様々な教派があるものの同じキリスト教なのだから一致団結できるのではないか、と思われるかもしれませんが、そう簡単にはいきません。教派の違いというのは、「考え方の違い」、ひいては「信仰の違い」を意味します。信仰に対する根本的な理解自体が違うので、教派間で仲良くすることはほぼ不可能と言えるでしょう。多くの場合、教派間で信仰の理解を巡って紛争が起こります。争いが起これば、教派間の溝がより深まります。深い亀裂が一度できてしまえば、その溝を再び修復することは困難です。そういった理由から、日本人クリスチャンは教派間での争いが絶えません。


それだけではありません。同じ教派内でも教会同士の考え方の不一致が原因で、教会同士で紛争しているケースもあります。また、一つの教会内でも、それぞれの信徒の信仰における考え方の差異から、信徒同士が争っている場合もあります。


悲しくも、これが現実です。キリスト教内部は常に争いが絶えません。しかしながら、クリスチャン同士で争うことは、神様のみこころに反することです。


新約聖書コリント人への手紙第一3章1-9節

兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。


新約聖書テモテへの手紙第二2章23-26節

愚かで無知な議論は、それが争いのもとであることを知っているのですから、避けなさい。主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。悪魔に捕らえられて思いのままにされている人々でも、目を覚まして、その罠を逃れるかもしれません。


神様は私たちキリスト者を仲間割れさせるために召されたのでしょうか。クリスチャン同士で争うことが神様のみこころなのでしょうか。


いいえ、違います。


私たちは神様の愛を宣べ伝えるために、この世に召されたのです。


私たちキリスト者が真心から愛し合う姿によって、世の人々に神様の愛が示されます。私たちキリスト者が争い合う姿を見て、この世の人々がキリスト者になりたいと思うでしょうか?神様の愛に深く深く感動することがあるでしょうか?


ないはずです!


私たちキリスト者同士が争い合う姿を見た世の人々はこう思うはずです。


「ほら!やっぱり、宗教があるから世界から戦争がなくならないんだ!宗教こそが災いの元!特定の宗教なんて持つもんじゃない!何がイエス・キリストの無条件の愛だ!きれいごと言ってんじゃねぇよ!( ̄д ̄)」


これは神様のみこころではありません。神様は私たちクリスチャン同士が深く愛し合うことによってご自分の愛を世の人々に示して欲しいと深く願っておられます。


新約聖書ヨハネの手紙第一4章7-12節

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。


神の愛は目に見えるものではありません。ですから、いくら私たちが世の人々に神の愛を伝えたところで、世の人々には伝わりません。私たちが実際に神様の愛を体現するときに、初めて世の人々は神の愛を完璧に理解することができます。私たちキリスト者に与えられている使命は、世の人々に神の愛を見える形で示すことです。キリスト者同士で争っていては、この使命を果たすことはできません。私たちキリスト者は、争うのではなく、一つとならなければなりません。


新約聖書コリント人への手紙第一1章10-17節

さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。

私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。もっとも、ステファナの家の者たちにもバプテスマを授けましたが、そのほかにはだれにも授けた覚えはありません。キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。


新約聖書エペソ人への手紙4章1-6節

さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。


実際、私たちキリスト者は一つです。イエス・キリストはただお一人であり、その一人の神を共に信じています。私たちは別々の神を信じているのではなく、同じ神を信仰しています。同じ神を信じているのですから、私たちキリスト者は一つです。多少の考え方の違いはあるとしても信仰の本質は同じはずです。考え方が異なるからといって、敵とは限らないのです。次の聖書箇所を見てください。


新約聖書ルカの福音書9章49,50節

さて、ヨハネが言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」しかし、イエスは彼に言われた。「やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。」


ある日、イエスの弟子が、イエスの名によって悪霊を追い出している他の人々に遭遇します。彼らはイエスの弟子の集団に入ろうとはしませんでした。ですから、弟子たちはその者たちが敵であると思い込み、悪霊追い出しをやめさせようとしました。しかしイエス様は、その者たちは仲間であると言われました。実際、反対しない人たちは私たちの仲間であるのです。信仰に対する考え方が少し違うからといって、その人たちが敵であるかと言えば、そうではありません。同じ神を信じているのですから、その人たちは仲間であるのです。決して敵ではないのです。イエス・キリストを信じている者同士、手を取り合って仲よくしようではありませんか!


初代教会は、信徒同士が共同生活を営み、毎日同じ場所で神を礼拝しました。文字通り、彼らは一つとなり、互いに愛し合いました。その愛が世の人々の中で反響を呼び、初代教会のメンバーが爆発的に増えていきました。現代を生きる私たちキリスト者も、互いに愛し合い、仲間割れしないで一つとなり、キリストの愛をこの世の人々に示す者となりましょう!!


新約聖書使徒の働き2章40-47節

ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。

すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。

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