あなたの信仰は本物ですか?
日本人の宗教観は基本的に「ご利益追求主義」です。多くの日本人は神や仏から与えられる「ご利益」を求めて、神社仏閣へ足を運びます。お正月に神社へ初詣に赴くことが、その典型的な例です。1月1日に神社へ訪れ、神に今年の「ご利益」を願い求めます。日本人にとって神仏とは、あくまで人間に良くしてくれる存在です。私たちが神仏に良くすることは決してありません。神様と人間の関係性は、神様から人間へと向かう一方通行のルートだけが存在します。これが日本人の宗教観です。
しかし、私たちキリスト者が持つ宗教観は、これとはまったく異なります。キリスト教の宗教観で言えば、神様と人間の関係性は両方向へ行き交う親密なものであり、一方通行ではありません。神様は私たち人間を愛しておられますが、その愛は一方通行であるべきではありません。神様が私たちを愛しておられる以上、私たちもその愛に応答して、神様を愛するべきです。神様を愛するとは、何よりもまず神様を第一優先に考えること、また神様の掟を守ることを意味しています。
新約聖書マタイの福音書22章36-40節
「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」
新約聖書ヨハネの手紙第一5章3節
神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。
私たちキリスト者は、神様の愛に応答して、神様を力いっぱい愛するべきです。私たちが神様を第一優先にするとき、私たちは現世的な成功を手に入れることはできません。神様を愛するとは、神様以外のものを全て捨て去ることを意味するからです。
新約聖書マタイの福音書6章24節
だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。
私たちは神様と神様以外のもの、その両方を大切にすることはできません。結局のところ、他方を大切にすれば、もう片方がおろそかになってしまうものです。神を大事にすれば富がおろそかになり、富を大事にすれば神がおろそかになってしまいます。私たちにはどちらか片方を愛することしかできないのです。ですから、私たちは覚悟を決めなければなりません。"神のために人生を捨て去る"という覚悟を。
新約聖書マタイの福音書10章34-39節
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。
新約聖書マタイの福音書16章24-28節
それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」
神を愛する者は、キリストと同じように十字架を背負い、神様以外の全てのものを捨てなければなりません。神様以外の全てのものには、当然ながら、自分の家族や自分の命までもが含まれます。
新約聖書ルカの福音書9章57-62節
彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」イエスは別の人に、「わたしに従って来なさい」と言われた。しかし、その人は言った。「まず行って、父を葬ることをお許しください。」イエスは彼に言われた。「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人が言った。「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。」すると、イエスは彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」
多くのキリスト者は「キリストに着いて行く!」と豪語しながら、実際のところキリスト以外のものも大切にします。しかし、私たちは"イエス様には枕するところがないこと"を覚えておかなければなりません。なぜなら、イエス様の国籍は天にあり、この地上では寄留者であられたからです。イエス様に着いて行くとは、私たち自自身も寄留者となることを意味します。
新約聖書へブル人への手紙11章13-16節
これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。
イエス様は「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」と言っておられます。イエス様に着き従うことを決めた者は、他のものを大切にすることはできないのです。イエス様とイエス様以外のものを両方大切にする者は、神の国にはふさわしくありません。ですから、キリストに着き従うと決心した者は、自分の家族や、自分の命さえも憎まなければならないのです。イエス・キリストへ着いて行くことは、どれだけ覚悟のいることなのでしょうか。イエス様の十二弟子でさえ、この真理を悟ることができませんでした。
新約聖書マルコの福音書10章35-45節
ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
新約聖書マルコの福音書15章21-32節
兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた。彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。
当時の人々は、旧約聖書に預言されている救世主(メシア)の到来を待ち望んでいました。しかしながら、その頃の人々が考えるメシアとは、軍事的・政治的リーダーでした。メシアなるユダヤ王がイスラエルをローマ帝国の支配から解放してくれることを人々は夢見ていました。イエスの弟子であるヨハネとヤコブも同じように考え、イエスがユダヤ王になられた暁には、自分たちを側近に置くようにイエスにお願いします。ヨハネとヤコブにとって、イエスに着き従うとは、富や権力、地位、名声を得る為の手段であったのです。しかし、イエス様は人々が期待しているような救世主(メシア)ではありませんでした。イエス様は十字架刑に処されて死に、三日目に復活することによって、霊的な世界の王となられたのです。本当はイエス様が十字架刑に処される時、両脇にはヨハネとヤコブがいるべきでした。しかし、そこにいたのは二人の強盗でした。ヨハネとヤコブはイエス様に着いて行くことの本質を見誤っていたのです。つまりは、イエスに着き従うとは、イエスと共に十字架を運び、十字架刑に処されて死ぬことを意味していたのです。
あなたの信仰は本物ですか?
あなたは日本の土着信仰のような「ご利益追求主義」でしょうか?
神はあなたを愛しておられます。そして、あなたの為に御子イエス・キリストを地上に送られ、あなたの罪に対する生け贄としてイエス・キリストを十字架の上に捧げられました。イエス様があなたの為に死なれたのですから、あなたもイエス様の為に死ぬべきです。日々、自分に与えられた十字架を背負ってイエス様に着いて行きましょう。
イエス様の為に全てを捨て去る覚悟はできていますか?
新約聖書ルカの福音書18章28-30節
すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分のものを捨てて、あなたに従って来ました。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、必ずこの世で、その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます。」
新約聖書コリント人への手紙第二5章13-15節
私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。
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