あなたは他人に仕返しをしたことがありますか?
私たち人間は怒りやすいです。そして、この世界で生きるとき必ずと言っていいほど他人から攻撃を受けます。他人からなんの嫌がらせも受けずに、平穏な日々を送れる人はごく少数派です。たいていの場合、人は誰かしらと衝突するものです。
もし、誰かから嫌がらせを受けたとき、あなたはどうしますか?
選択肢は三つです。
①直接的に復讐する
②隠れて間接的に復讐する
③仕返しをせず我慢する
おそらく、多くの人々は①か②を実行するのではないでしょうか。相手が怖くない人であれば①でもいいですが、相手が怖い人であれば②を選ばざるを得ないと思います。③を選択する人はどちらかと言えば少数派だと思います。
私自身も人に仕返しをしたことがあります。私が中学生の時です。私は滋賀県のド田舎で生まれ育ち、通っていた中学校は田舎のヤンキーで溢れかえっていました。私は不良だらけの中学校でいたって真面目な学生生活を送っていました。勉学と野球、生徒会の三つのことに力を入れていたこともあり、非常に忙しい日々でした。私の真面目さは中学校の中でも際立っていたので、不良たちから目をつけられ、ヤンキーたちと衝突することが多々ありました。あるとき私はトイレの中で不良たちに絡まれ、拳で殴られました。私はその場で報復したい衝動にかられましたが、相手は集団だったので太刀打ちできませんでした。そこで私は陰湿な仕返しをすることにしました。不良たちの自転車のタイヤに針をさしてパンクさせて回りました。当時の私は復讐せずに我慢していることができませんでした。
このように多くの人々は、誰かから嫌がらせを受けた時、何かしらの仕返しをすることと思います。それが当たり前と言えば、当たり前なのでしょう。しかし、永遠の大ベストセラーである聖書は「仕返しをしてはいけない」と言います。
新約聖書ローマ人への手紙12章19-21節
愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
旧約聖書レビ記19:17,18節
心の中で自分の兄弟を憎んではならない。同胞をよく戒めなければならない。そうすれば、彼のゆえに罪責を負うことはない。あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。
私たちは、ついつい仕返しをしたくなるものですが、決して復讐をしてはいけません。復讐という行為は神様のものです。神様は一人一人の人間をさばき、その行いに応じて報いられるお方です。神様は悪しき者をその悪行の故に罰せられ、呪われます。しかし反対に、正しい者をその正しい行いの故に祝福され、繁栄させられます。人間をさばかれるのは神様であって、私たちではありません。神様のさばきを待たずに、私たちが自分で復讐するのなら、神様の権威に反抗していることになります。神様はご自分のタイミングで悪人をさばかれます。そのタイミングを人間側が決めていいはずがありません。心配しなくても神様は悪人の悪行をしっかり見ておられます。神様が悪人を罰せずに放って置かれることなど決してありません。復讐は神様のなさることですから、全てを神様にゆだねましょう。
じつはイエス様の弟子たちも私たちと同じように復讐心に燃えたことがありました。しかし、イエス様は弟子の復讐心を咎められます。次の聖書箇所を見てください。
新約聖書ルカの福音書9章51-56節
さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。そして、ご自分の前に使いを送り出された。彼らは行ってサマリア人の村に入り、イエスのために備えをした。しかし、イエスが御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリア人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた。そして一行は別の村に行った。
イエス様と弟子の一行はエルサレムへ向かって進みました。旅の道中、サマリア人たちはイエス様を受け入れませんでした。当時、サマリア人とユダヤ人は仲たがいしていました。サマリヤ人は純ユダヤ人ではなく異邦人との混血ユダヤ人であり、ゲリジム山で礼拝していました。一方ユダヤ人と言えば、エルサレムで礼拝していました。両者共に同じ神を信仰しているにも関わらず、別々の場所で神様を礼拝するほどに仲が悪かったのです。世の救い主として地上に来られたイエス・キリストが敵対者の礼拝地であるエルサレムに向けて歩んでおられたので、サマリヤ人たちはイエスを拒絶しました。これについてイエスの弟子ヨハネとヤコブが怒り狂い、復讐を試みました。しかし、イエス様は二人の弟子の復讐心を咎められ、お叱りになられたのでした。
私たちは復讐すべきではありません。たとえ他人から嫌なことをされたとしても、私たちは我慢しているべきです。しかし、聖書は我慢するだけでは不十分であると言います。神様は私たちに「敵を愛すること」を願われます。
新約聖書ルカの福音書6章27-38節
しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。あなたの上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたのものを奪い取る者から、取り戻してはいけません。人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに貸しています。しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。
さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」
復讐せずに我慢するだけなら不十分です。神様はそれ以上のことを私たちに望まれます。それは「敵を愛すること」です。人から何か嫌なことをされたのなら、仕返しをせずに、むしろその人に良いことを返します。悪には善を持って対処するのです。そうすることによって、相手の頭に燃える炭火を積むことになります。これを聞いて、皆さんはこう思われることでしょう。
「え、そんなの無理じゃね? (゜o゜)」
確かに人間の力では無理です。素の人間には、敵を愛することはできません。しかし、神様の御力によれば可能です。イエス・キリストを信仰するとき神様から私たちの元に聖霊様が送られます。その聖霊様の御力によって私たちは敵を愛することができるようになります。なぜそう断言できるのかと言うと、イエス・キリストが実際に敵を愛することによって、神様が敵を完璧に愛することができるお方であることを証明されたからです。
新約聖書ローマ人への手紙5章5-8節
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
私たち人間は罪人です。この世界に義人は一人も存在しません。全ての人間が罪人です。罪の報酬は死です。人間は罪の故に死んだあと地獄に落ちる運命にあります。しかし、私たち人間を救う為に神イエス・キリストが地上にやって来られ、ご自分の身体を人間の罪に対する生け贄として十字架の上に捧げられました。イエス・キリストは、人間が受けるはずだった罪による罰を全て代わりに引き受け、十字架刑に処され、死なれました。しかし、なんとイエス・キリストは三日目に復活されました。そしてイエスは天に昇り、神様の右の席に座られました。つまりイエス・キリストは今もなお天で生きておられます。イエス・キリストの死と復活によって、私たち人間の罪が完璧に赦される道が開かれました。イエス・キリストを信仰する者は罪が赦され、死んだあと永遠の天国へ入ることができます。
イエス・キリストは、不敬虔で神に敵対していた罪人である人間を救う為に、ご自分のいのちをも投げ出されたのです。これこそ敵をも包み込む完璧な愛です。私たちはこのイエスの姿勢に見習うべきです。
イエス・キリストを信仰する者には神様から聖霊様が与えられます。私たちは聖霊様の御力によって敵を愛することができるようになります。
決して私たちは自分で復讐すべきではありません。復讐は神様のなさることですから、全てを神様にお任せしましょう!そして私たちは聖霊様の御力によって敵を愛することにより、悪に善を持って打ち勝ちましょう!くれぐれも悪に悪を返さないようにしましょう!神様は全ての人間の行動、心の中の考えをしっかりと見ておられます!神様の公正なさばきを信じましょう!!
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