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執筆者の写真鳥元 剛志 -torimoto tsuyoshi-

心配するのはやめなさい!明日のことを心配しても意味がありません!神を信じなさい!!


心配するのはやめなさい!明日のことを心配しても意味がありません!神を信じなさい!!

あなたは心配性ですか?


この世界には心配性の人が非常に多いです。なぜなら人生には不安ごとが付き物だからです。私たち人間は、「今」目で見える範囲のことしか理解することができません。1秒先、1分先、1時間先、1日先、1年先、10年先、100年先のことを”予想”することはできても、実際どうなるのかまでは、私たちにはわかりません。それは「神のみぞ知る世界」です。「今現在」以降のことがわからないからこそ、私たち人間は心配します。


「心配」という感情は非常に恐ろしいものです。「心配」は、私たちの心に、ありもしないことを次々と連想させます。それが起こる確率は非常に低いのにも関わらず、それが起こった時のことを私たちに想像させ、私たちを不安にします。もう一度言いますが、それが起こる確率は非常に低いのにも関わらずです。不安は私たちの心を疲弊させます。心配が次の心配を引き起こし、どんどん私たちを不安にさせ、私たちの心を疲れさせます。一連の出来事を心配した後は、もうぐったりです。


また、私たち人間は何か心配事があると、目の前のことに集中できなくなります。不安が私たちの心を覆い、やるべきことに手が付けられなくなります。何をしていても、その不安ごとが頭の中を駆け巡ります。そのような状態になれば、もう手遅れです。私たちの心はあれよあれよと暗闇にまっしぐらです。


私はそんな心配性のあなたに言いたいのです。


そんなに心配して、いったい何の意味があるんですか??


正直に言うと、起こるかどうかもわからないことで悩んでいても、時間の無駄です。どうせ悩むなら、それが起こってから悩めばいいです。物事には様々な可能性がありますから、全ての可能性について心配しても意味がありません。起こる前に悩むのではなく、起こってから悩めば大丈夫です。起こる前に悩み始めると、それだけでエネルギーを消費し、本当にそれが起こった時に疲れていて対処できなくなります。ですから、無駄に心配するのはやめましょう。次の聖書箇所を見てください。


新約聖書マタイの福音書6章25-34節

 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。


上記はイエス様の教えの一部です。イエス様は私たちに「心配するな」と言っておられます。なぜなら、いくら心配したところで、私たち人間には状況をどうすることもできないからです。私たち人間に、この世の事象を好きに操作できる力はないのです。そしてイエス様は「安心しなさい」と私たちに言っておられます。なぜなら、神様は非常に私たち人間を愛しておられ、常に気遣っていてくださるからです。神様は、私たち人間を、野の鳥や草花よりも大切にしてくださっています。野の鳥や草花でさえ美しく繁栄しているのですから、ましてやより高価で尊い私たち人間が繁栄しないはずがありません。神様は私たちが必要としているものを全て知っておられ、あらかじめ全てを準備してくださっています。神様が私たちをいつまでも養ってくださるので、私たちは何も心配する必要はありません。神様の守りに安心して、明日のことは心配せずに、今日という一日を精一杯生きればいいのです。


神様が私たちに必要なものを全て整えてくださると確信できれば、心配事自体がなくなることは容易に想像できることと思います。心配性の克服方法は「神を信頼すること」です。神様は、私たちが信頼するに値するお方です。神様を信頼して、失望させられることは決してありません。次の聖書箇所を見てください。


新約聖書ルカの福音書9章10-17節

 さて、使徒たちは帰って来て、自分たちがしたことをすべて報告した。それからイエスは彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに退かれた。ところが、それを知った群衆がイエスの後について来た。イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒やしを必要とする人たちを治された。日が傾き始めたので、十二人はみもとに来て言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、彼らは周りの村や里に行き、宿をとり、何か食べることができるでしょう。私たちは、このような寂しいところにいるのですから。」すると、イエスは彼らに言われた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません。私たちが出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか。」というのは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかし、イエスは弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい。」弟子たちはそのとおりにして、全員を座らせた。そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになった。人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二かごあった。


イエス様が地上におられる間、多くの人々がイエス様の評判を聞きつけて、御元にやって来ました。ある日、イエス様の元に5000人以上の人々が集まりました。大集会が終わった後、イエスの弟子たちの心をある心配事が襲います。弟子たちは何に心配したのか。5000人以上の人々の夕食についてです。彼らは、五つのパンと二匹の魚しか持っていなかったので、とても5000人以上の人々に給仕することは不可能でした。弟子たちは問題が浮上する前に、問題を解決しようとします。つまり、群衆を解散させようとしました。これに対してイエス様は弟子たちに無理難題を突き付けます。


「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」


弟子たちは言います。


「え!? そんなの無理じゃん!?そんなお金どこにあるのΣ(・□・;)」


イエス様は心の中で思われます。


「はぁ(-_-;)信仰の薄い者たちよ(-_-;) こいつらダメだ(-_-;)俺が何とかしよう(-_-;)」


そしてイエス様は、五つのパンと二匹の魚から5000人以上の人々に有り余るほどの夕食を振る舞い、群衆は食べて満腹しました。結局のところ、弟子たちの心配は無意味でした。神に不可能なことはありません。神にできないことは何一つとしてありません。神にとって、五千人、一万人、十万人、百万人、一千万人、一億人、十億人、百億人の人々を養うことは容易いことです。弟子たちは自分たちの能力だけに注目し、心配しましたが、彼らが本当に注視すべきだったのは「神様の御力」でした。弟子たちが神の御力を信じることができていたならば、彼らは一切心配しなかったでしょう。


このように、神は私たちの必要を全て満たすことができるお方であるので、私たちは何も心配する必要がありません。ただただ、私たちを愛し、常に気遣ってくださる神様を信頼すればよいのです。神様を信頼して、失望させられることは決してありません。神様は必ず私たちの必要を全て満たしてくださいます。


心配性の人は神を信じましょう!そうすれば、もう暗闇を歩くことはなく、必要以上に疲れることはありません!神を信じ切りましょう!神を信じ切る者は心配性から解放されます!!

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