愛って常に温度が変わるものなの?(゜o゜)
- 鳥元 剛志 -torimoto tsuyoshi-
- 2024年11月29日
- 読了時間: 10分

「愛」と聞くと何をイメージしますか?
愛と聞くと、一般的に男女間における恋愛が連想されることでしょう。男女間の甘い恋心が「愛」であると考える人が圧倒的多数派であると思います。恋愛って素晴らしいものですよね。異性に恋をするとき、世界がバラ色に見え、何をしていても心が高鳴るものです。自分の恋心が一方通行ではなく、相思相愛であったことがわかったとき、その喜びは最高潮に達します。
しかし、どうでしょう。あんなにもラブラブだったカップルが、ほんの数か月後には破局を迎えます。何があったのかと聞くと、彼らは「愛が冷めた」と言います。そして、彼らは次の恋愛へ向かいます。すると、どうでしょう。彼らは次の恋愛においても数か月で破局を迎えます。何があったのかと聞くと、彼らはまた「愛が冷めた」と言います。彼らにとって「愛」とは、熱くなったり、冷たくなったり、ぬるくなったりするものなのです。
果たして本当にそうなのでしょうか。
愛とは、常に温度が変化するものなのでしょうか。
いいえ、違います。
愛は、決して温度変化しません。
愛が変化したのではなく、人の心の中の"感情"が変化しただけです。感情と愛を混同してしまっているところに大きな間違いがあります。たしかに人の感情は常に変化します。しかし、愛は決して変化しません。愛の定義は永遠に不変です。それでは、愛の定義とは何でしょうか。それは聖書にはっきりと書かれています。結婚式でよく朗読される箇所です。
新約聖書コリント人への手紙第一13章4-8節
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。
これが真実で正しい愛の定義です。つまり要約するならば、愛とは「利他的なもの」であるということです。自分の利益を全く求めずに、他人の利益を追求することが愛の本質です。愛は不変なのです。
先ほどのカップルの話に戻りましょう。彼らは「愛が冷めた」と言いましたが、その言葉は間違いです。正しくは「相手が自分の思い通りに動いてくれないので、もういらない、捨てよう。もっと自分の願いを叶えてくれる素敵なパートナーを探そう」です。結局のところ「自分の利益とはならない点、自分にとって不都合なことが相手の中に見えてきたので見切りをつけた」ということです。決して愛が冷めたわけではないのです。本当の愛によって結びつけられたカップルは、多少相手に嫌なところがあったとしても、忍耐し、受け入れます。お互いが相手の利益を追求するカップルがうまくいくのは想像に容易いと思います。たとえ相手に気に入らないところがあったとしても、忍耐して愛し続けることが聖書の教える本当の愛です。
新約聖書ルカの福音書6章27-38節
しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。あなたの上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたのものを奪い取る者から、取り戻してはいけません。人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに貸しています。しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。
さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」
自分に良くしてくれる人に良くすることは、本当の愛ではありません。自分に悪いことをしてくる人、自分にとって都合の悪い人に良くすることが真実の愛です。この真実の愛を持って接するカップルは関係性が長続きします。
神であられるイエス・キリストは、実際の行動を通して、私たちに本当の愛とは何かということを教えてくださっています。次の聖書箇所を見てください。
新改訳聖書ルカの福音書9章37-45節
次の日、一行が山から下りて来ると、大勢の群衆がイエスを迎えた。
すると見よ、群衆の中から、一人の人が叫んで言った。「先生、お願いします。息子を見てやってください。私の一人息子です。ご覧ください。霊がこの子に取りつくと、突然叫びます。そして、引きつけを起こさせて泡を吹かせ、打ちのめして、なかなか離れようとしません。あなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子をここに連れて来なさい。」その子が来る途中でも、悪霊は彼を倒して引きつけを起こさせた。しかし、イエスは汚れた霊を叱り、その子を癒やして父親に渡された。人々はみな、神の偉大さに驚嘆した。
イエスがなさったすべてのことに人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」しかし、弟子たちには、このことばが理解できなかった。彼らには分からないように、彼らから隠されていたのであった。彼らは、このことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた
イエスの評判は至る所に広がり、様々な地方から人々がイエスの元にやって来ました。人々はイエスに病気の癒しを願い求めました。イエスは、来る日も来る日も人々の病気を癒されました。そのような中で、イエスに悪霊追い出しの依頼が入ります。しかも、イエスの弟子たちでは悪霊を追い出すことができなかったと言います。そこでイエスは思われます。
「やれやれ、またか。私の弟子たちはいったい何をしているのか。信仰の薄い者たちよ。いつまで私はあなたがたに我慢して、あなたがたを愛し続けなければならないのか。(-_-;)」
しかしイエス様は、心の中でこうは思いつつも、悪霊追い出しの依頼を引き受けられたのでした。イエス様は、自分にとって都合の悪い状況の中でも人々を愛し続けられました。その自己犠牲的な愛の姿勢は、十字架刑に最もよく示されています。
新約聖書ローマ人への手紙5章1-11節
こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。
私たち人間は罪人です。この世界に義人は一人も存在しません。罪の報酬は死です。人間は罪を持つが故に死んだあと地獄に落ちる運命にあります。この滅びる運命にある私たち人間を救う為に、神は愛する一人子イエス・キリストを地上に遣わされ、人間の罪に対する生け贄として十字架の上に捧げられました。イエス・キリストは、人間が受けるべきだった罪の罰を全てその身に引き受け、十字架刑に処されて死なれました。そして、イエス・キリストは三日目に復活され、天に昇り、神の右の席に座られました。この神イエス・キリストの死と復活の故に、人間の罪が完璧に赦される道が開かれました。イエス・キリストを信仰する者は、今も生きておられるイエスによって罪が赦され、永遠の天国へ入ることが約束されます。つまりイエス・キリストは、私たち人間を救う為に、ご自分のいのちを投げ出されたのです。
新約聖書ヨハネの福音書15章13節
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
イエス様は、ご自分に良くしてくれる人々の為に死なれたのでしょうか。いいえ、違います。イエス様は、善良な人の為でなく、正しい人の為ではなく、不敬虔な罪人の為に死なれました。しかも、イエス様は自分を十字架刑に処した張本人たちの為にも、こんな祈りをしておられます。
新約聖書ルカの福音書23章32-38節
ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
イエス様は、ご自分を十字架刑に処した人々の赦しの為に祈り、敵を救う為に死んでいかれました。なんと大きな愛でしょうか。イエス様は、ご自分の行動を通して、私たちに本当の愛とは何かを示してくださったのです。
このように、愛の定義は永遠に不変です。決して熱くなったり、冷たくなったり、ぬるくなったりしません。愛は温度変化しないのです。イエス様のように、自己犠牲的で利他的な、変わらない愛によって、人々と関わっていきましょう!自分の利益よりも、他人の利益を追求する愛情深い者となりましょう!本当の愛とは、甘いものではなく、忍耐の伴う、厳しく険しいものであるのです!!
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