あなたは人の話を聞くのが得意ですか? それとも苦手ですか?
私は結婚していますが、よく妻から「ねぇ、あなた、私の話を聞いてる!?今、私、なんて言った?教えて! 返事してたけど、本当に聞いてたの!? 」と言われます。この問いに対して私は適当に「え、聞いてたよ!〇〇〇の話でしょ?」と答えると、妻は「ほら、やっぱり聞いてなかった!私〇〇〇 の話してないもん!もぉ~!(怒)」と𠮟られます。実際、私は妻の話をあまり聞いていないのに「うん、うん、うん」と返事をする時があります。心の中では妻の話を聞こうとしているのに、なぜか耳に入って来ないときがあります。耳に入って来ない時と言えば、たいていの場合、頭の中で他のことを考えています。私は本当に人の話を聞くのが苦手だなぁと心の底から思います。
これはなにも私に限った話ではないはずです。基本的に、人は他人の話を聞くことが苦手です。みんな他人の話を聞くよりも、自分のことを他人に話す方が好きです。多くの人は自分の話を誰かに聞いて欲しいと願っています。だからこそ、聖書にはこんなことが書かれています。
新約聖書ヤコブの手紙1章19-21節
私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
聖書は「自分のことばかり話すのではなく、もっと他人の話をよく聞きなさい」と言います。人間誰しも自分の話を聞いて欲しいと願っていますから、全員が一斉に話し出せば、場がめちゃくちゃになります。人の話を聞くところに人間関係がうまくいくための秘訣が隠されています。というよりも、人の話をよく聞くことが人間関係がうまくいくための秘訣です。誰しも自分の話を聞いて欲しいと願っているのですから、私たちがその人の話をよく聞いて要求を満たしてあげれば、必然的に人間関係はうまくいきます。人間関係において「聞くこと」は非常に重要であるのです。
人間関係だけではありません。じつは神様との関係性においても「聞くこと」は非常に重要です。人間と神様がコミュニケーションを取るための手段は「祈り」です。私たち人間は「祈り」によって神様と会話します。多くの場合において私たち人間は、祈りの中で神様に対して一方的に話してしまいがちです。しかし神様も私たち人間と同じように、ご自分の話を聞いて欲しいと願っておられます。神様との関係性を深めたいのであれば、よく神様の御話を聞くことです。私たちは話すよりも聞くことを優先することによって、神様とより親密な関係性を築くことができます。「聞く」といえば、旧約聖書に登場する大預言者サムエルの幼少期を連想させます。
新約聖書サムエル記第一3章1-21節
さて、少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。その日、エリは自分のところで寝ていた。彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。神のともしびが消される前であり、サムエルは、神の箱が置かれている主の神殿で寝ていた。主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい、ここにおります」と言って、エリのところに走って行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。帰って、寝なさい」と言った。それでサムエルは戻って寝た。主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。わが子よ。帰って、寝なさい」と言った。サムエルは、まだ主を知らなかった。まだ主のことばは彼に示されていなかった。主は三度目にサムエルを呼ばれた。彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、主が少年を呼んでおられるということを悟った。それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。
主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。主はサムエルに言われた。「見よ、わたしはイスラエルに一つのことをしようとしている。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。だから、わたしはエリの家について誓う。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」
サムエルは朝まで寝て、それから主の家の扉を開けた。サムエルは、この黙示のことをエリに知らせるのを恐れた。エリはサムエルを呼んで言った。「わが子サムエルよ。」サムエルは「はい、ここにおります」と言った。エリは言った。「主がおまえに語られたことばは、何だったのか。私に隠さないでくれ。もし、主がおまえに語られたことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」サムエルは、すべてのことをエリに知らせて、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように。」
サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった。全イスラエルは、ダンからベエル・シェバに至るまで、サムエルが主の預言者として堅く立てられたことを知った。主は再びシロで現れた。主はシロで主のことばによって、サムエルにご自分を現されたのである。
預言者という仕事は「神様の御言葉を民に伝える」ことを生業とします。預言者は神様の話を聞き、それをそのまま民に伝えます。大預言者サムエルは、神様の御言葉を一つも地に落とすことはなく、全て余すところなく民に伝えました。彼はまさに聞く人でした。彼は熱心に神様の話を聞く人であったので、神様に大いに用いられました。彼と神様の関係性は非常に良好であったのです。神様との関係性において「聞くこと」がどれだけ大事なことであるのかがおわかり頂けるのではないでしょうか。神様であられるイエス・キリストも「聞くこと」の重要性を力説しておられます。
新約聖書ルカの福音書8章4-18節
さて、大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。また、別の種は岩の上に落ちた。生長したが、水分がなかったので枯れてしまった。また、別の種は茨の真ん中に落ちた。すると、茨も一緒に生え出てふさいでしまった。また、別の種は良い地に落ち、生長して百倍の実を結んだ。」イエスはこれらのことを話しながら、大声で言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
弟子たちは、このたとえがどういう意味なのか、イエスに尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義を知ることが許されていますが、ほかの人たちには、たとえで話します。『彼らが見ていても見ることがなく、聞いていても悟ることがないように』するためです。このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。道端に落ちたものとは、みことばを聞いても信じて救われないように、後で悪魔が来て、その心からみことばを取り去ってしまう、そのような人たちのことです。岩の上に落ちたものとは、みことばを聞くと喜んで受け入れるのですが、根がないので、しばらくは信じていても試練のときに身を引いてしまう、そのような人たちのことです。茨の中に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らはみことばを聞いたのですが、時がたつにつれ、生活における思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実が熟すまでになりません。しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。
明かりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいません。燭台の上に置いて、入って来た人たちに光が見えるようにします。隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので知られないもの、明らかにされないものはありません。ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまで取り上げられるからです。」
イエス・キリストは、ご自分の話を注意深く聞くことができない人々には「たとえ話」を用いて神の国の奥義を示されました。当然、たとえ話を聞いた人々は、話の内容を理解することができませんでした。イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と言っておられます。人間には耳がついていますが、ただついているだけではダメなのです。聞く意思が伴わなければ、何の意味もありません。しかし、イエスはご自分の弟子たちに「たとえ話」の解き明かしをすることにより、神の国の奥義を余すところなく明らかにされました。それは弟子たちがイエスの話を聞く心の準備ができていたからです。弟子たちは「聞く耳」を持っていたのです。
イエスが話された「種まきのたとえ話」は、これまた「聞くこと」についてです。ある農夫が神様の御言葉である「聖書の御言葉」を蒔きます。道端、岩の上、茨の中は、どれも聖書の御言葉をしっかり聞いていない人々を指しています。彼らは表面的には聖書の御言葉を聞いてはいますが、ただ聞いただけで、自分のものとはしていませんでした。だからこそ種が地にしっかりと根付かなかったのです。しかし、これらとは対照的に、良い地に落ちた聖書の御言葉は地に根付き、大木となって実を結びました。彼らは、聖書の御言葉をただ聞いただけではなく、自分自身の言動に落とし込み、実践しました。聖書の御言葉が彼らの心の奥底にまで浸透したのです。これが「聞くこと」の本質です。
「聞く」とは上記のように、聖書の御言葉を自分の実生活に適用することを意味します。適用して初めて「聞いている」ことになります。聖書に書かれていることはどれも非常に良い教えばかりです。しかしながら「へぇ!いい話だなぁ!聖書って素晴らしいや!」で終わらせては何の意味もないのです。聖書の御言葉を実生活で実践して初めて、それは良い教えとなります。次の聖書箇所を見てください。
新約聖書ヤコブの手紙2章14-26節
私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。ああ愚かな人よ。あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。同じように遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したので、その行いによって義と認められたではありませんか。からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。
上記の聖書箇所には「行い」の大切さがかなり詳細に書かれています。その話は「人間の救い」にまで至ります。つまり、「聖書の御言葉を実践すること」は「救い」の話にまで至る非常に重要なことであるということです。
これで「聖書の御言葉を実践すること」の大切さがおわかり頂けたことと思います。どうか、ただ聞くだけの者とならないでください。「聖書に書かれていることは本当に良い話ばかりだなぁ」だけで終わらせないでください。聖書の教えを本当に良いものだと思うのなら、実際に実践して聖書の教えを価値あるものとしてください。イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われます。聞く耳のある者となってください。
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