現代社会は「超競争社会」です。
人は、この世界に生まれ落ちた瞬間から、半ば強制的に人間同士の競争に参加させられます。学校、家庭、会社、仕事、習い事、趣味など、至る所で激しい競争が繰り広げられています。たとえ本人に競争の意志がなかったとしても、他人から勝手に評価され、周りの人々と比較されます。競争社会とは「己と他人が比較される社会」とも言えます。何をしても必ず"成績"というものがつきます。成績があるところには優劣が生まれます。優劣が決まるところに競争は起こります。人間社会で生きる以上、私たちは競争から逃げることはできません。
嫌でも競争に巻き込まれるこの社会の中で、なおもあなたに問いたい。
人と競争するのって、つらくないですか?(;´Д`)
正直、私はつらいです。というよりも、つらかったです。私は生まれてからこの方、ずっと競争社会の中を走り続けて来ました。私が参加した競争は「勉学」です。私は中学校入学と同時に必死に勉学に取り組み始めました。なぜなら、競争に勝ち抜いて、有名高校、有名大学、有名企業へ進学する為でした。その心の動機は「承認欲求を満たすため」でした。私は小さい頃から褒められることが大好きでした。人から褒められた時、自分の存在価値を強く実感することができたからです。私は周りの人々から認められたいが為に必死に勉学に取り組みました。中学三年生の時には、すでに学年でいつも5番以内に入るほどになりました。テストで良い点数を取ると、いつも周りの友達から「すげー!!」と褒めちぎられました。私はそれらの賞賛の言葉になんとも言えない快感を味わい、その満足感・達成感を自分のモチベーションにしていました。
しかしです。
高校へ進学すると、どうでしょう。中学の時は学年でいつも上位にいたのに、高校では真ん中の方に位置するようになりました。周りから凄いと言われることもなくなりました。そこで私は上位の層へ入る為に必死に勉強しました。しかし、上には上がいて、上位との差は埋まるどころか、広がる一方でした。高校二年生の時点で、私の目標は国公立大学へ入学することでした。その目標に向けて、私は塾(東進)へ通い始め、コツコツ真剣に勉学に取り組みました。私の受験勉強は順調に見えましたが、最終的には失敗に終わりました。国公立大学一本で受験しましたが落ちてしまい、私立大学を受験していなかったので、浪人することになりました。そこからが地獄の始まりでした。一年間、遊びもせずに滋賀県から京都府の予備学校へ通い、真剣に勉強しました。一年間の過酷な予備校生活を経て、再度、国公立大学を受験しましたが、なんと、またしても失敗に終わりました。絶望感でいっぱいでした。滑り止めで受験した私立大学のうち何校かは合格していたので、その中から私立関西大学を選び、進学することに決めました。失敗に終わった受験生活を引きずりながら、大学へ進学したのですが、私は一回生の春に、またしても虚無感を味わうことになりました。私は大学入学と同時に"軽音楽部"へ入部しました。高校生の頃からの夢が、大学の軽音楽部へ入ることだったからです。その夢は実現したのですが、その入部した軽音楽部の実情がひどいものでした。というのも、タバコ、お酒、乱交、パーティーが入り乱れ、大学の闇を全て終結させたかのような場所でした。私は「せっかく苦労して入った大学なのに、こんなに遊んでいる人々がいて、一体なんのために受験勉強を頑張ったのかわからない」というような気持ちになりました。そんな時にイエス様と出会いました。私は教会へ通い始め、日常的に聖書を読むようになり、他人と自分を比較することによって自分の価値を決めることが間違っていたことに気がつきました。そこで私は人間同士の競争から降りることにしました。その瞬間、私の肩の荷が下り、気持ちがすっと楽になりました。私はイエス様と出会うことにより競争(他人との比較) から解放されたのでした。
人間の価値は他者との比較によっては決まらず、ただ神様との関係性によってのみ決まります。神様は私たちにこう言われます。
旧約聖書イザヤ書43章4節
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。
私たち人間は神様によって造られた存在です。私たち一人一人が神様による最高傑作です。神様の目から見て私たちは一人一人が高価で尊く、神様は私たちを熱烈に愛しておられます。私たち人間は他人と比較することによって自分の価値を見出そうとしますが、それは間違いで、私たちは生まれた時からすでに価値のある存在なのです。だとするならば、私たちは初めから競争しなくてよかったのです。一位になって周りの人々から賞賛を受ける必要性はどこにもありません。私たちはすでに価値ある存在なのですから。
じつは、イエス様の弟子たちも私たちと同じように競争しました。次の場面を見てください。
新約聖書ルカの福音書9章37-48節
次の日、一行が山から下りて来ると、大勢の群衆がイエスを迎えた。
すると見よ、群衆の中から、一人の人が叫んで言った。「先生、お願いします。息子を見てやってください。私の一人息子です。ご覧ください。霊がこの子に取りつくと、突然叫びます。そして、引きつけを起こさせて泡を吹かせ、打ちのめして、なかなか離れようとしません。あなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子をここに連れて来なさい。」その子が来る途中でも、悪霊は彼を倒して引きつけを起こさせた。しかし、イエスは汚れた霊を叱り、その子を癒やして父親に渡された。人々はみな、神の偉大さに驚嘆した。
イエスがなさったすべてのことに人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」しかし、弟子たちには、このことばが理解できなかった。彼らには分からないように、彼らから隠されていたのであった。彼らは、このことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた。
さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかし、イエスは彼らの心にある考えを知り、一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」
イエス様が悪霊を追い出す場面を見た群衆は驚き、イエスの偉大さを褒めたたえました。弟子たちはすでにイエスを旧約聖書で預言されていたメシア(救世主)だと思っていたのでしょう。弟子たちは誰が一番偉いのかという議論を始めます。当時、メシア(救世主)とは、ユダヤ人をローマ帝国の支配から解放する軍事的・政治的リーダーであると考えられていました。弟子たちは、これからイエスがユダヤの王となり強固な国を作り上げるのだと期待しており、イエスの側近の地位をめぐって弟子同士で激しい競争が繰り広げられていたのでした。しかし、当時の人々が考えるメシア(救世主)のイメージ自体が間違っていました。イエス様はこの間違ったイメージを訂正する為に次のように言われました。
「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」
イエス様は、皆がイメージしている救世主像を完全否定されました。イエス様はこれからユダヤ人たちに捕らえられ、十字架刑に処される運命にありました。イエス様は、十字架刑により死に、三日目に復活することによって、霊的世界の王となる予定でした。イエス様はユダヤの王ではなく、全世界の王となるお方であられたのです。ですから、弟子の論争は無意味であったのです。ある日、イエスの三番弟子のうちの二人、ヨハネとヤコブがこんなことをイエスにせがみました。
新約聖書マルコの福音書10章35-40節
ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」
新約聖書マルコの福音書15章21-32節
兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた。彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。
ヨハネとヤコブは、イエスの側近になることの意味を理解できていませんでした。イエスの側近になるということは、イエスと共に十字架刑に処されることを意味していたのです。ですから、結局のところ弟子たちは何も理解できていなかったのです。誰が一番偉いのかと論争する弟子達へ向けてイエス様は言われました。
「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」
当時、子供は社会的身分が非常に低い存在でした。子供は大人たちからなおざりにされがちでした。ですから、子供を大事にすることは、当時の大人にとって難しいことでした。イエス様は「へりくだって子供を大事にしなさい。子供のように小さき者になりなさい。」と弟子たちに言われます。つまりイエス様はこのように弟子たちに言われたのです。
「誰が上とか、誰が下とか、そんなしょうもない競争はやめて、もっとへりくだって謙虚になりなさい!<`ヘ´>」
競争に勝つことによって手に入れることができるものは、確かに素晴らしいかもしれません。しかし、それ以上にもっと大切なことがあります。それは「謙虚さ」です。人と激しい競争をしなくても、神の御前にへりくだり謙虚な姿勢で人生を歩むなら、神様がちょうど良い時にあなたを上に引き上げてくださり、大胆に用いてくださいます。
新約聖書マタイの福音書23章12節
だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
新約聖書ペテロの手紙第一5章5,6
同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。
ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。
新約聖書マタイの福音書20章16節
このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」
この超競争社会の荒波に流されてはいけません。他人と競争したところで、上には上がいて、つらいだけです。それはまるでゴールの見えない無限マラソンのようです。人は、他人との比較によっては絶対に自分の価値を測ることはできません。人間の価値は神様との関係性によってのみ決まります。競争社会から一歩外れ、神様との関係性を持ってみてはいかがでしょうか。きっとあなたのストレスは大幅に軽減され、最高の幸せな人生を歩むことができますよ。
あなたにはすでに価値があります!
神様はあなたを愛しておられます!
新約聖書ローマ人への手紙12章2節
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
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