top of page

絶対に人を差別してはいけません!


絶対に人を差別してはいけません!

人間は「人を差別すること」が大好きな生き物です。


人は人をグループ分けしたがります。なぜか?自分を優越的な立場に置きたいからです。優越的な立場に立った人は、自分よりも劣っているとされる人々を見下し、嘲り、支配しようとします。優越的な立場に立った人は自己の承認要求が満たされ、気持ちが高揚します。このようなことが人類の長い歴史において世界中の多くの場所で行われてきました。


たとえばインドには「カースト制度」と呼ばれるものがあります。カースト制度では、人々を「バラモン」、「クシャトリヤ」、「ヴァイシャ」、「シュードラ」の四つのヴァルナ(階級)に分け、この四つのヴァルナ(階級)以外の人々を不可触民(アチュート、アウトカースト、パーリヤ)と定義します。現在、インドには不可触民が約2億人いるとされています。不可触民は、差別の対象にされ、人々から嘲られ、虐げられています。


また、一般的によく知られているように「黒人」は人類の長い歴史において世界的に差別の対象にされてきました。アフリカでは、ヨーロッパやアメリカの「白人」の手によって「黒人」は奴隷にされ、過酷な強制労働を強いられました。アメリカでは、エイブラハム・リンカーン、マルコム・X、キング牧師らが黒人差別撤廃に尽力しましたが、未だ人種差別はなくなっておらず、黒人差別へのデモ活動などが活発です。


じつは私たちが暮らす日本でも差別が当たり前のように横行していました。皆さんはおそらく「穢多(えた)」と「非人(ひにん)」という言葉を聞いたことがあるでしょう。穢多とは、日本において中世以前から見られる身分制度の身分のひとつであり、日本仏教、神道における「穢れ」観念からきた「穢れが多い仕事」や「穢れ多い者(罪人)が行なう生業」の呼称、非人身分の俗称とする説もあるが、それより古く、古代の被征服民族にして賤業を課せられた奴隷を起源と見る立場もあります。非人とは、主に、日本中世の特定職能民・芸能民の呼称であり、江戸時代の賎民身分の呼称で、江戸時代の非人は基本的には乞食のことです。穢多、非人の人々は、壮絶な差別を受けました。彼らは国から、ある特定の地域に居住するように義務付けられました。彼らが暮らした村は「部落」と呼ばれ、部落差別問題は今も日本に根強く残っています。


これらのように、人類の長い歴史を通して、多くの差別問題が世界中で起こり、今もなお続いています。その数は非常に多く、全てを語ることはもはやできません。人はすぐに人をグループ分けし、差別し、見下します。私たち人間は「人を差別すること」が本当に大好きです。永遠の大ベストセラーである聖書は「人を差別してはいけない」と言います。


新約聖書ヤコブの手紙2章1-13節

私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。あなたがたの集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て、また、みすぼらしい身なりの貧しい人も入って来たとします。あなたがたは、立派な身なりをした人に目を留めて、「あなたはこちらの良い席にお座りください」と言い、貧しい人には、「あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足もとに座りなさい」と言うなら、自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となったのではありませんか。私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか。それなのに、あなたがたは貧しい人を辱めたのです。あなたがたを虐げるのは富んでいる人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名を汚すのも、彼らではありませんか。

もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。「姦淫してはならない」と言われた方は、「殺してはならない」とも言われました。ですから、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になっているのです。自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。


旧約聖書エレミヤ書22章3節

主はこう言われる。公正と正義を行い、かすめ取られている者を、虐げる者の手から救い出せ。寄留者、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また、咎なき者の血をここで流してはならない。


絶対に人を差別してはいけません。神様は公正を愛されるお方です。公正とは、かたよりなく平等であること、公平で正しいこと、また、そのさまという意味です。つまり、神様は人を平等に扱われるお方です。人は神様によって造られた作品であり、私たち一人一人が神様の最高傑作です。神様からすれば一人一人が高価で尊い存在であり、神様は一人一人を非常に愛しておられます。神様は、誰か特定の人を大事にされたり、特定の誰かを蔑まれたりすることは決してありません。神様は全ての人を平等に扱われます。


新約聖書ヨハネの福音書1章18節

いまだかつて神を見た者はいない。のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。


新約聖書ヨハネの福音書14章7,10節

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」

わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。


神様が公正なお方であるということを実際に示してくださったのが、イエス・キリストです。神様は目に見えないので、神様が人の形をとって見える姿で地上に来てくださいました。それが神イエス・キリストです。イエスは地上にいる間、人を差別されることはありませんでした。


新約聖書ルカの福音書5章27-32節

その後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留められた。そして「わたしについて来なさい」と言われた。するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。

それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。すると、パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」


イエス様が地上にやって来られた当時は、取税人が人々から非常に嫌われていました。当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にありました。イスラエルはローマ帝国に税金を支払う義務があり、その税金をイスラエル国民から徴収する役割を負ったのが「取税人」でした。取税人は、普通、ローマ帝国に支払う額以上のお金をイスラエルの国民から徴収し、その差額分を自分のお小遣いにしていました。ですから、取税人はイスラエル国民から「罪人」と断罪され、非常に嫌われていました。しかしイエスは、取税人であるレビを弟子に任命しました。罪を悔い改めたレビは、同じような境遇の人々を家に食事に招き、宴会を催しました。これを見たユダヤ教宗教指導者たちは、イエスの弟子たちを断罪しました。なぜなら、彼らは律法を完璧に守る自分たちを正しい者とし、罪人たちを見下し、嘲り、差別していたからです。イエスは、罪人を差別するのではなく、むしろ罪人を受け入れられました。ここから、神様は完璧に公正なお方であることがわかります。神様はこの世界からあらゆる「差別」を全てなくしたいと願っておられます。その為に愛する一人子イエス・キリストを地上に送ってくださいました。


新約聖書ローマ人への手紙10章12節

ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。


新約聖書コリント人への手紙第一12章13節

私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。


新約聖書ガラテヤ人への手紙3章28節

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。


新約聖書コロサイ人への手紙3章11節

そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。


新約聖書エペソ人への手紙2章14-19節

実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。


旧約聖書では、救いはユダヤ人だけにあるとされました。アブラハムの子孫であり、割礼を受けた者だけが神によって救われるとされ、それ以外の人々は滅びると考えられていました。旧約聖書の時代では、ユダヤ人とそれ以外の人々には決して超えることのできない高い壁がありました。つまりユダヤ人は、人々をグループ分けし、ユダヤ人ではない人々を差別していたのです。神はイエス・キリストを地上に送ることにより、非ユダヤ人にも救いをもたらし、この敵対関係を終結させ、二つを一つとされました。イエス・キリストは、人種の壁を打ち壊し、誰でも等しく救いをあずかれるようにされました。イエス・キリストを信仰する全ての者は、人種や国籍、性別に関係なく、平等に救われるのです。


私たち人間は罪人です。罪の報酬は死です。人間は内にある罪の故に、死んだあと地獄に落ちる運命にあります。残念ながら、人間は自分の力で罪を取り除くことができません。つまり、人間は自力で滅びの運命から逃れることはできないのです。しかし、あわれみ深い神様は、この状況を打破するために、愛する一人子イエス・キリストを地上に送ってくださり、イエス・キリストを人間の罪に対する生け贄として、十字架の上に捧げられました。イエス・キリストは十字架刑によって死に、よみに下り、墓に葬られ、そして三日目に復活されました。復活されたイエスは天に昇り、神様の右側の席に座られました。イエスを信仰する者は、イエスの死と復活の故に罪赦され、永遠の天国へ入ることができるようになりました。イエスを信じる者は、誰でも救われます。もはや、人種や国籍、性別などは一切関係ありません。全ての人に対して救いの道が開かれたのです。そこに差別はありません。神様はイエスを捧げることによって、この世から「差別」を完全に消し去られたのです。


ですから、もう一度言います。人を差別してはいけません。神様はこの世界から差別をなくすために、愛する一人子をも捧げられました。それにも関わらず、他人を差別するなど一体何事でしょうか。それは神様の思いを踏みにじる行為に他なりません。もはや人種、国籍、性別の壁は取り壊されたのです。人をグループ分けし、見下し、嘲り、差別するのはやめましょう。神様は平和を望んでおられます。すでにキリストによって平和は訪れました。私たちは「差別」ではなく「平和」を推進する者となりましょう。全ての壁は取り壊されたのですから。全ての人々に、公正に、公平に、平等に接していきましょう!



Comments


bottom of page