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誰に着いて行くのか?モデリングする対象は慎重に選んで!⚠


誰に着いて行くのか?モデリングする対象は慎重に選んで!

あなたには師がいますか?


「師」とは、学問技芸教授する人や、僧・神父牧師などを敬っていう言葉です。つまり、師とはあなたが尊敬していて、人生の模範としている人のことです。人は皆、誰かしらの生き方を参考にして、人生を歩んでいます。ある人は父母を、ある人は恩師を、ある人は先輩を、ある人は有名人を、ある人は友達を、配偶者を、祖父母を、自分の「師」とし、人生の模範とします。人は尊敬する人に自分自身をモデリングするものです。人は時が経つにつれ次第に「師」のようになっていき、最終的には「師」と瓜二つになります。


私が今日あなたに伝えたいことは「あなたが師を選ぶときは注意深く慎重に決めるべきである」ということです。なぜかというと、あなたは選んだ「師」のようになるからです。あなたの選んだ「師」が素晴らしい人格の持ち主ならば良いのです。あなたもきっと素晴らしい人格の持ち主へと成長することでしょう。しかし、もしあなたの選んだ「師」が愚かな者であったならば、最悪です。あなた自身も師と同じような愚か者になってしまいます。「師」として誰を選ぶのか、誰に着いて行くのか、誰をモデリングするのか、あなたは慎重になるべきです。誰を選ぶのかで、あなたの未来が大きく変わります。イエス様はこう言われます。


新約聖書ルカの福音書6章39,40節

イエスはまた、彼らに一つのたとえを話された。「盲人が盲人を案内できるでしょうか。二人とも穴に落ち込まないでしょうか。弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。


非常に痛烈な御言葉ですね。たしかにイエス様が言われる通り、盲人が盲人を案内することはできません。目の見えない人が目の見えない人を道案内するならば、道に落とし穴があっても気が付かず、二人とも穴に落ちることになります。弟子は師を超えることができず、弟子は師のようになります。つまり、イエス様は「愚か者の弟子になるな」と言われているわけです。結局のところ、愚か者は目が見えない盲人であるので、人を導くことはできません。私たちが愚か者に着いて行くならば、一緒に穴に落ちることになります。そうならない為にも、私たちは「師」を慎重に選ばなければならないのです。それでは私たちは、どのような人を自分の「師」と選ぶべきなのでしょうか。イエス様はこう言っておられます。


新約聖書マタイの福音書23章8-10節

しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。


結論から申し上げますと、私たちにとっての唯一の師は「イエス・キリスト」です。全ての人間は罪人であり、全ての人間が愚か者です。この地上には誰一人として「師」と呼ばれるに値する人は存在しません。全ての人間は盲目であり、他人を道案内することはできません。神であられるイエス・キリストだけが、人間を正しい方向へ道案内することができます。私たちの師はイエス・キリストただお一人であるのです。イエス・キリストは私たちにとっての良き羊飼いです。


旧約聖書イザヤ書40章11節

主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。


旧約聖書詩篇23章1-6節

主は私の羊飼い。

私は乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ

いこいのみぎわに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ

御名のゆえに 私を義の道に導かれます。

たとえ 死の陰の谷を歩むとしても

私はわざわいを恐れません。

あなたが ともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖

それが私の慰めです。

私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え

頭に香油を注いでくださいます。

私の杯は あふれています。

まことに 私のいのちの日の限り

いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。

私はいつまでも 主の家に住まいます。


新約聖書ヨハネの福音書10章1-18節

「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。

そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」


聖書では、私たち人間は「羊」に、そしてイエス・キリストは「羊飼い」に例えられます。羊は、愚かであり賢くいないので、羊飼いがいなければ一人で生きてはいけません。羊は弱いので、羊一匹ではオオカミに食べられてしまいます。羊は、羊飼いがいて初めて、賢く、安全な生活を送ることができます。イエス・キリストは私たち人間にとっての良き羊飼いです。ですから私たちは、イエス様に着いて行くべきであり、イエス様を「師」として人生の模範とするべきです。イエス様は聖書を通して私たちに模範を示してくださっています。例えば、以下のような場面が聖書に登場します。


新約聖書ヨハネの福音書13章1-17節

 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。

 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。


このように、私たちの「師」であり「先生」であるイエス・キリストは、聖書の至るところで私たちに模範を示してくださっています。聖書を読めば、私たちが人生をどのように歩めばよいのかわかります。人生に迷っている方は聖書を読んでみてください。そして、是非イエス様の模範に従ってください。そうすれば、人生の方向性がはっきりし、あなたの人生はきっとうまくいきますよ。イエス・キリストのようになり、イエス・キリストと瓜二つになりましょう!最高の人生があなたを待っています!!




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