あなたは頭の良い人ですか?それとも頭の悪い人ですか?
この世界は学歴社会です。頭の良し悪しで将来の人生が大きく変わります。頭の良い人は偏差値の高い有名大学を出て、有名企業へ就職します。大企業でもらえる給料は、もちろんですが高額です。しかし、頭の悪い人は偏差値の低い大学を出て、中小企業へ就職します。当たり前ですが中小企業でもらえる給料は、大企業と比べるならば、かなり少額です。この世界で成功を収めるためには、頭の良さが必要になってきます。
ですから、多くの人々が頭の良さを求めて、小さい頃から必死に勉学に向き合います。教育熱心な親の元に生まれてきた子供たちの中には、幼稚園から小学校へ上がる時にお受験をする子たちまでいます。また、偏差値の高い有名高校、有名大学へ進学する為に、多くの学生が学校の放課後に塾へ通い、勉強漬けの日々を送ります。有名大学へ進学後も、有名企業へ就職する為に、多くの学生は勉強漬けの日々を送り、インターンシッププログラムへの参加や海外留学などもして、様々なスキルや経験を身に付けます。有名企業へ就職した後も、さらなる高みを目指して、人々は熱心に勉学に励みます。たくさんの資格を取得する社会人も多いですね。なぜなら、この世界は学歴社会であるからです。頭の良い人が高みへ引き上げられる世界です。誰もが成功したくて、必死に勉学に励み、様々な経験やスキル、資格を身に着けます。
しかしです。頭の良い人がこの世の全てのものを手に入れることができる世界で、一つだけ、頭の良い人が絶対に見えないものがあります。
それは「イエス・キリスト」です。
残念ながら、頭の良い人にイエス・キリストは見えません。あなたがどれだけ賢くても、イエス・キリストを見ることはできません。たとえあなたが有名大学を卒業し、有名企業に就職し、大金を稼ぎ、様々な経験やスキル、資格を身に着け、素晴らしい成績を収め、成功したとしても、残念ながらイエス・キリストを見ることはできません。人間がいくら努力したところで、イエス・キリストを見ることはできないのです。イエス・キリストは、ご自分が姿を現わそうと心に決めた人の前にしか姿を現されません。つまり、イエス様に選ばれた人しかイエス様を見ることはできないのです。そして、イエス様が姿を現す人を決める評価基準は、この世の評価基準とはまったく異なります。イエス様は、あえてこの世で価値がないとされる人々の前に姿を現されます。
新約聖書コリント人への手紙 第一1章17-31節
キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。
十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
神様は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選び、有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神様はあえて選ばれます。肉なる者がだれも神様の御前で誇ることがないようにするためです。十字架のことばは、滅びる者たちには愚かです。十字架のことばとは、十字架刑に処されて死なれたイエスを神と宣言することばです。十字架刑に処された者を神とするのは、確かに一般的な見方で言うと愚かの極みでしょう。しかし、それこそが神様の知恵であるのです。神様は、この世の知者がイエス・キリストを見ることができないようにされました。イエス・キリストは知者から隠されています。この世の知者は、神様の御前で自分の知恵を誇ることはできないのです。
先ほども言いましたが、神様はご自分が姿を現わそうと心に決めた人の前に姿を現されます。
新約聖書ヨハネの福音書15章12-25節
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。
世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今では、彼らの罪について弁解の余地はありません。わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいます。もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今や、彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。
私たちが自ら望んでイエス・キリストを見ることは決してできません。あくまで、その決定権は神様にあります。イエス様は、神様が望まれた人の前にのみ姿を現されます。ですから、イエス・キリストを目にすることができた人は非常に幸いな者であり、恵まれています。そんなラッキーマンは神様の恵みに大いに感謝し、喜ぶべきです。なぜなら、イエス様が地上にやって来る前に生きてきた偉人たちは、イエス様を見たいと切望しましたが、現実的に見ることができなかったからです。イエス様の十二人の弟子たちは、そんなラッキーマンの一員でした。
新約聖書ルカの福音書10章21-24節
ちょうどそのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。子がだれであるかは、父のほかはだれも知りません。また父がだれであるかは、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかは、だれも知りません。」それからイエスは、弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたが見ているものを見る目は幸いです。あなたがたに言います。多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たいと願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けませんでした。」
もしこの記事をお読みの方の中で、イエス・キリストを信仰しているキリスト者がいらっしゃるのならば、その方は幸せ者です。なぜなら、イエス・キリストを見ることができたからです。あなたはイエス様によって選ばれた数少ない者の内の一人です。自分自身が選ばれたことを大いに喜んでください。それは誰でも持つことができる特権ではないからです。もう一度言いますが、あなたは選ばれたのです!この世の成功者でさえ手に入れえることができない特権に預かったのです!大いに喜んでください!あなたは最高の特権を得たのです!
もしあなたが頭の良い人であるならば、それは非常に残念なことです。しかしながら、頭の良い人は決してイエス・キリストを見ることができないのかというと、そういうわけではありません。あなたが自ら神様の御前にへりくだり、謙虚な姿勢を保つならば、もしかするとイエス様があなたの前に姿を現してくださるかもしれません。もしイエス様があなたの前に姿を現してくださったのなら、千載一遇のチャンスと捉え、思い切ってイエス様を神と信仰してください!そうすればあなたも幸いな者の一員となることができます!!
新約聖書ヨハネの黙示録3章20節
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
Comments